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「コトバの問題」(本誌第41巻第6号,巻頭言)を臺先生が共感を以って読み,その趣旨に全面的に賛意を表明されたと知って大変嬉しい。しかしさすがは臺先生というべきか,先生は同時に私の議論の一番弱いところ,しかしその実最も重要なところ,問題の核心というべきところを突いた。私の主張,「精神状態はコトバによって表現される」「コトバで表現できるからこそ本来主観的なものが客観性を獲得する」は説明が不十分であるというのである。臺先生はコトバが人を欺く可能性にまず注意を促す。それから非言語的表現,例えば,絵画・舞踊・音楽などが感情や象徴を伝える事実を挙げ,次いで,コトバを持たない動物の感情表現や認知行動障害までもが理解の対象となり得る事実に言及し,その最も劇的な例の一つとして,慢性覚醒剤中毒のサルに幻覚の発現を見た御自分の研究成果を挙げて,それこそ百聞は一見にしかずだと喝破された。どうも臺先生は私が「コトバによって主観的なものが客観性を獲得する」とのべたのが気に入らないらしい。主観はコトバによって客観化されるのでなく,単に「合意:通用性」を得るにとどまり,真の客観性はコトバを越えた客観的な事柄によって初めて実証されると論じておられるのである(臺弘,本誌第41巻第8号902ページ)。
私は臺先生の言われることがわからぬわけではない。それが今日の正論であることも十分承知している。にも拘らず敢えて異を唱えねばならぬが,そうする前にちょっと寄り道をして,本誌のような学術誌にふさわしくはないと知りつつ,ゲーテの『ファウスト』の一場面を紹介したい。それは劇の冒頭のところで,学問に倦み疲れ,無力感に打ちひしがれて死を決するファウストが,外の復活祭の騒ぎに気を取られ,もう一ぺん生きようと新約聖書を手に取る場面である。この聖書に「初めに言葉があった」という有名な一節がある。ファウストはこれを好きなドイツ語に訳そうとするが,Wort(コトバ)につっかえてしまう。彼はコトバを高くは評価できない。代わりにSinn(ココロ)かKraft(力)かと迷うが,最後に,「初めにTat(行為)があった」として漸く満足したということである。コトバの達人ゲーテはTatの方がWortより重みを以って受け取られる事実を知っていたにちがいない。このことと関連するが,一般に主観(Subject)というと一方的で妥当性を欠き,客観(Object)というと事実に即し普遍的であるという風に受け取るのを今日誰も怪しまぬが,これは18世紀以降そうなったのであり,それ以前は価値判断がこの逆であったということを知っておく必要があろう。
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