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「コトバの問題」についての土居さんの巻頭言(本誌第41巻第6号)を共感をもって拝見した。その主旨には私は全面的に賛成である。ただし土居さんが「精神状態はコトバによってしか表現できない,主観はそれによって客観性を獲得する」と言われるのは説明が不十分である。ここでは近頃の「実証に基づく精神医学evidence-based psychiatry」に関連して,〈コトバによる実証性〉を吟味する必要がある。この巻頭言の後半で臺の簡易精神機能テストについて述べられている部分は,この吟味の不足によるものと思われる。コトバの達人である土居さんから,コトバによる客観性の曖昧さや限界と非言語的証拠のもつ実証性について教えていただければありがたいと思って,この手紙を書いた。
古語にあるように「書不尽言,言不尽意」だけでなく,話し手はコトバの奥の意味までも表出する。面接に必要な「ストーリ」の理解は話し手と聞き手の合作である。治療の成否は症例理解の実証性を支える。ただしコトバは理論的には人を欺く可能性も常にもっている。さらに感情や象徴の機能はむしろ非言語的な表現によって深く広く伝えられる。描画その他による表現法や絵画と舞踊と音楽の芸術活動はコトバには現せないその基盤にもかかわるものである。私は動物の感情表現や認知行動障害までも理解の対象に入れている。例えば,慢性覚せい剤中毒実験のサルに〈幻覚〉が出たと言われた時,それを見た一同は声を呑んで賛同した。行動の文法(構造)で幻覚?のような症状までが理解されるとは,私には目をみはる思いであった。百聞は一見にしかずとはよくも言ったものである。ヒトの「主観」はコトバによって「客観化」されるのではなく,広い「合意・通用性」を得るにとどまる。主観的症状はコトバによる傍証や非言語的な回路を通じて解明される過程で,逐次に実証性を得てくるというべきであろう。客観性が一義性・論理性・普遍性をもつのに対して,臨床における主観的症状は多義的・象徴的・個別的であるから,診断・治療に当たっては,客観性をもつ知見の探求と一緒に,主観性についても行動の構造や力動の中に実証性・検証性を高める操作が必要となろう。それはコトバの重要性を軽んじるどころか,強化して理解を深めることである。
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