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はじめに
うつ病は“抑うつ気分”と“興味・喜びの喪失”を主症状とする気分障害の1つで,欧米における生涯有病率は10%に迫る深刻な疾患である。うつ病の発症・病態機序はいまだ解明されていないが,抗うつ薬にセロトニンやノルアドレナリン経路を調節する作用があることから,うつ病脳における“モノアミン枯渇仮説”21,28)が提唱された。その後,神経画像学的技術の進歩により,うつ病患者脳やストレス負荷動物における脳海馬萎縮,脳梁膝下の前頭前野の萎縮,前頭前野の神経細胞およびグリア細胞の縮小・減少などが報告され,うつ病の生物学的構造として,遺伝的要因・環境要因による神経伝達や神経回路再構築の障害,すなわちうつ病の“神経可塑性異常仮説”21,28)が提唱された。うつ病発症における遺伝的要因の関与は,他の精神疾患(統合失調症など)に比べて小さいと考えられていることから,ストレスなどの環境要因がより重要であることが推測されている。そのため現在では,「うつ病患者はストレスに対する脆弱性を素因として有し,ストレスなどの外的環境要因によって神経線維・樹状突起の縮退などが引き起こされることで神経可塑性異常を生じてうつ状態に陥る」という“ストレス脆弱性仮説”が支持されている(図1)。
神経可塑性には脳内における遺伝子発現制御機構が重要な役割を果たしている。事実,うつ病患者死後脳解析において,神経可塑性に関わる遺伝子ならびにそれら遺伝子の発現量を制御する転写因子の発現異常が多数報告されている10,13,19,29)。最近,DNAの塩基配列に依存しないエピジェネティックな遺伝子発現調節機構と気分障害との関連が注目されている(図1)。エピジェネティクスとは,DNAを構成する塩基配列上のsingle nucleotide polymorphism(SNP)などの違いによる遺伝子発現の変化ではなく,DNAメチル化やヒストン修飾(アセチル化,メチル化,リン酸化など)のようなDNA塩基配列の変化とは無関係な後成的な化学修飾によるクロマチン構造の変化を介した遺伝子の転写調節機構と理解されている。一般的に,DNAメチル化は遺伝子発現を抑制し,ヒストンアセチル化は遺伝子発現を促進すると考えられている(図2)。
エピジェネティクスの気分障害への関与を支持する背景として,1)抗うつ薬投与によって脳由来神経栄養因子(BDNF)遺伝子のプロモーター領域におけるヒストンアセチル化レベルが増加すること34),2)ヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)の過剰発現マウスでは,抗うつ薬投与による抗うつ様行動が消失していること34),3)HDAC阻害剤に抗うつ作用が認められること8,16,34,36),4)双極性障害の治療薬として使用されているバルプロ酸にはHDAC阻害作用があること,などが挙げられる。また,うつ病発症の構成要素としてのストレス脆弱性の形成機序において,幼少期の劣悪な養育体験(育児放棄など)がグルココルチコイド受容体(GR)遺伝子のDNAメチル化量を増大することでその転写産物量を制御することが動物モデル実験により報告されている37,38)。事実,虐待の既往のある自殺者は対照群と虐待の既往のない自殺者に比して海馬におけるGR遺伝子のDNAメチル化量は増加し,その発現量は有意に低下していることも報告されている26)。つまり,養育期の環境がその後成体になってもGR遺伝子のDNAメチル化という形で,脳に記憶されていることを示している。これらGR遺伝子のメチル化解析の論文はエピジェネティクス研究のランドマーク的存在であるが,論文発表当時“生後にDNAメチル化は変化しない”と考えられていたこと,そして環境要因によるGR遺伝子のDNAメチル化変化に対する分子機構の解明まで至っていないことなどから,論文の結果と解釈には注意が必要であるとされた4)。
その後,生後発達段階や成体の細胞内でも環境に応じてさまざまな遺伝子のDNAのメチル化や脱メチル化がダイナミックに変化することが確認されている。
2016年までに発表されたGR遺伝子のDNAメチル化に関する論文22報のうち,animal studyでは7報(全10報中),human studyでは10報(全12報中)の論文で劣悪な養育環境がGR遺伝子のDNAメチル化レベルを増大させることが報告されている35)。これらの知見から,DNAメチル化やヒストンアセチル化といったエピジェネティックな遺伝子発現制御とうつ病態・ストレス反応との関連が推測される。
本稿では,うつ病患者ならびにうつ病モデル動物において発現・機能異常が認められるヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)に焦点をあて,神経可塑性やうつ病態との関連,さらにHDACを標的とした阻害剤の新たな抗うつ薬創出への可能性ついて概説したい。
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