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Ⅰ.フランスにおける精神分析学の系譜
S. Freudは4度パリを訪れている7,12)。
最初は奨学金を得てのSalpêtrière留学で,パリ滞在は一番長く1885年10月13日から1886年2月28日までの4カ月半であり,この際のCharcotとの出会いが彼のその後の研究の導火線となった。今も,地下鉄Luxembourg駅近くの小路に,「1885年から1886年にかけてS. Freudがここに滞在した」と書かれた石板のはめ込まれている建物があり,1886年1月1日のCarl Koller宛の手紙に「ぼくはあと2カ月ここに,LE GOFF通りのHôtel Brésilにいます……」21)とFreud自身書いているから,ここがパリ滞在中の下宿になっていたのであろう。他の多くの神経病医との出会いも許嫁のMartha Bernaysへの手紙に書かれている21)が,Charcotへの傾倒は熱烈で,滞仏中から許可を得て彼の臨床講義の独訳を始めている。下坂氏の指摘のとおり,その一部の佐藤恒丸氏による邦訳22)が恐らくFreudの書いたものの日本紹介の最初であろう。それはさておき,その後の3度は1889年夏NancyにLiébault, Bernheimを訪ねて催眠を学んだあとと,1910年Nurmbergでの精神分析の国際会議の折と,そして,最後に1938年Nazisの圧迫を逃れてロンドンに亡命する途上の滞在である。いずれも短期間で,最後の折のMarie Bonaparteを除いて,フランスの分析家との密な交わりはなかったようである。1914年に発表された「精神分析運動の歴史について」20)でFreudは,フランスにおける最初の理解者としてMorichau-Beauchantの名をあげている。この人はポワチエPoitiersの医学校ではじめて精神分析を教えた(1912年)人である。ついでボルドーBordeauxのE. Rgéis教授とA. HesnardがHesnard医師の兄O. Hesnard(この人は文学博士でベルリンのフランス学館創設者である。のちにグルノーブルGrenobleの大学医長となり,1938年に亡くなった)にすすめてFreudのいくつかの論文を翻訳させ雑誌L’Encephale誌上に発表し,1913年に一冊の本にまとめてパリのAlcan社(のちのP. U. F.)から「Les Psycho-analysedes névroses et des psychoses」として発行したのがフランスにおけるまとまったFreud紹介のはじめであり,それが第一次大戦勃発に先立つ数カ前のことである。荻野が述べているように13),P. Janetの思想がフランスにおける精神分析理解の一つの素地を作ったことは確かであろうが,1913年のロンドンの国際医学会でのJanetの講演は精神分析に好意的ではなく,「意に反して私は精神分析を台なしにしている誇張や幻想を示さなくてはならない……」と述べ,Freudも前述の「歴史」20)でJanetのこの時の言葉を取り上げて,「パリでは,Janetの見解を一寸ばかり言い換えて繰り返したことだけが立派なものとされ,それ以外は駄目なものとされた」と論駁し,この両大家の相反はついに解けることがなかった。
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