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I.はじめに
精神分裂病の妄想にどういう日本的特質が認められるかという問題については,すでに1939年に宮城19)の発表した研究がある。「家族を被害者とする被害妄想」というその表題で簡潔に集約されているように,彼はこの種の妄想がわが国に多くみられる特殊な被害妄想の形式であることを指摘し,さらに,この現象を自我の範囲という面から考察して,いわゆる社会的自我の範囲が日本のような家族主義社会では家族全体におよびやすいことを強調したわけだが,宮城の着目したこの主題は30年後に小久保14)によってふたたび取り上げられ,共同体感情の障害という視角から補強されるにいたる。小久保の論考は,共同世界における「ともにある」存在の挫折から病者を中心とする家族共同体の意識がいっそう密な結合性をつよめていくその力動に重点をおいたもので,必ずしも日本的特質をうたってはいないが,いずれにせよ「家族を被害者とする被害妄想」が分裂病の臨床でなお頻繁な発生をみている事実に変わりはない。
ところが,この問題は前記の先駆的研究以後あまり関心を呼んだ形跡がないし,まして分裂病の妄想をめぐる日本的特質が正面から論じられたことはなく,荻野27)や笠原ら12)のすぐれた総説にもこの点の記述はない。近年,海外諸国との国際交流の機会がふえ,精神医学の分野でもtransculturalな研究方向が次第に活発化している現状からみると,これはいかにも不可解であって,culture-boundな症状やkulturlabilな現象への入念な配慮をおこたるところからは均衡のとれた精神医学の発展を期待することはできまい。
このたび,精神病理懇話会・富山の第1回集会で妄想のパネルディスカッションが持たれたのを機会に,筆者は「分裂病の妄想―その日本的特質」と題して上述の問題圏を粗描することにしたが,この構想にきっかけをあたえたものとして2つの契機があるので,本論へ入るまえおきとしてこの点からまず述べておきたいと思う。
1つは西欧(といっても主にドイツとフランス)の患者と日本の患者とのあいだに見られる具体的なありようの違いである22)。われわれはふつう教科書や文献のたぐいから得た知識をとおして,分裂病のイメージというのが大体均一で,どこへ行ってもあまり変わらないと思いこんでいるが,実際は必ずしもそうでなく,ヨーロッパと日本人ではかなりの差がある。筆者ははじめてドイツへ行った折「こちらの患者は興奮してあばれたりどなったりすることがない」と聞いて驚いた経験があるが,日本の病院でよく見かけるそういう光景はなるほど向こうにはない。では,彼らはどうふるまっているかというと,たとえ一方的な論理にせよ,自分の立場を言葉で徹底的に押し通そうとする。つまり,日本の患者たちが自分を見失って感情や行動で反応しがちなのに対し,向こうの患者たちは言葉や理屈でいわば武装しながら自分をつらぬこうとする。それゆえ,日本の患者のように,馴れてくるにつれて医師や看護者に「ベタベタつきまとう」ようなこともない。また,日本ではとかく守勢にまわりがちで,簡単に「被害的」になってしまい,そのくせ彼らの被害妄想はamorphで形態も構造も脆い場合が多いのに,向こうではむしろ攻勢に出ることが少なくなく,いきおいその妄想も明確な主題と強い骨格をそなえることになる。日本では患者が暴力をふるうとはいっても,せいぜい運動乱発的に周囲の人になぐりかかったりするのがおちなのに,ヨーロッパでは特定の個人に狙いをさだめ,ピストルなどで殺傷する事件が跡を絶たない34)のも,上述のような両者の違いに由来するだろう。
もう1つは,宗教精神病理の分野で分裂病と宗教の関係をしらべていた折20,23)に気づいたことだが,たとえば,この方面の簡潔な古典として知られるK. Schneiderの『入門』32)は分裂病者の宗教的体験として,神の声を聞くなどの幻聴,神の姿を見る幻聴,妄想性啓示(wahnhafte Offenbarung),ある特殊な使命を与えられたという妄想性信仰(wahnhafter Glaube),見えないものの現存感(神の実体的意識性),超越者からの支配感(被影響体験)その他をならべている。これらはどれも病者の主体を超えた神やその等価物の存在が前提となって生起する現象で,それが外部から病者にさまざまな作用をおよぼすという形で「宗教的体験」が現われてくる。こういう種類の体験はむろん日本の分裂病者にも観察されないわけではないが,これよりはるかに多いのは,神や人の霊が「のりうつる」「つく」「よる」といった憑依体験とか,自分が「神になった」「○○の神である」という一種の化身妄想などで,これらをぬきにしてはおよそ日本人の宗教体験を語ることができない23)。
ところが,こういう憑依体験にせよ化身妄想にせよ,融合ないし合体を本質とするような宗教体験は,あとにも見るとおり,ヨーロッパ系の文献ではほとんど問題にならない。神に関してはTheomanieとかEntheomanieの用語があり,前者は一般に宗教的内容の妄想を漠然と指し,後者はU. H. Peters30)によると「神に憑かれているとか,神であるという妄想的確信」に相当するが,これを症例で厳密に跡づけた文献は見当たらない。キリストへの化身,すなわち「キリスト妄想」(Christuswahn)でさえけっして多くはない16,32)。DamonopathieないしDamonomanieのほうはDamonenwahnとともに精神医学史上重要な概念であるが41,44),これも厳密に「悪魔憑依」にあたる"demonomanie interne"1)はごく一部をなすにすぎない。―
以上に述べた2つの契機はたがいに無関係なものではけっしてなく,日本人の自我の特有なあり方をともに示唆しているようにみえる。この点の議論はあとへ回すことにし,順序として,日本の分裂病の患者にどういう種類の妄想が特有な形態として現われるか,そこになにか共通の構造が見いだせるか,といった問題からまず検討していくことにしよう。
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