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この論文が主として問題にするのは災害患者のうちで,客観的に実証できる症状が非常に少ないか,またそういう症状がない--むしろこんな場合が多い--のに強い自覚的な訴えがあるグループである。こういう患者の判定はときに診断する医師にとって非常に難しいことがあるので,これらの患者は診察と鑑定のために大学病院へ送られる機会が非常に多い,したがって,私はここ数年来この問題についていろいろな経験を積んだ。私が作り上げた見解は災害患者をよくみている医師達の見方と基本的に一致することは勿論である。しかし,若い世代の医師達の間で以下の論述が少しでも役に立てば幸いと思う。
問題が法的な鑑定,すなわち外傷患者が災害補償を受ける権利についてパーセント訳注)の形ではっきりとした報告をするようなものでなく,純医学的判断であるならば,困難さははるかに少ないであろう。すなわち,いわゆるヒステリーや神経衰弱といった病的状態の発生についての今日のわれわれの知識水準よりすれば,災害後の病態の多くが純精神的原因,換言すれば災害の後でその人の意識の中に形成され定着した観念に帰しうることについてはまったく疑問はない。この種の観念の発生と強さがわが国に災害立法が存在することによって著しく促進されるのは容易に理解できる。すなわち,こういう法律が施行された現在においては,災害の直後に「私は災害年金を受け取るであろうか?」,「いくら貰うだろうか?」,「自分の労働能力の障害はどれくらいかしら?」などの問いかけが被保険者の意識に上るのである。それ故,今や外傷患者でははじめに傷害があった場合にはそれが治癒してしまっても,自己の状態にこだわり,自己の身体を観察し,作業能力を判断し,自己の主観的感覚に注目する傾向が強められている。現在でこそ災害は社会的な後発現象を来し広く外傷患者の生活全体に意味を持つことがあるが,災害立法以前では災害はその人にとって単なる災害という出来事にすぎなかった。災害立法の細目が労働者階層に知られるにつれて,賠償要求の数が多くなった,というのは何か災害にかかるとすぐに上で触れたような考えに捉われる労働者が次第に増えたからである。上述の問いかけから直ちにある種の空想が発生したり,また災害の後遺症があるかどうかと自己検索をすればその結果がその人の願望のほうへと傾きがちになることは容易に了解できる。というのは災害を受けた労働者のほとんどの人では直ちに災害年金への願望が生じるからである。明確で客観的な考え方をする人はまれである。多くの労働者にとって努力せず,また仕事もしないで一定の収入を得るという期待はきわめて魅惑的であるので,それ以外の公正な考え方はできなくなる。この時労働者の多くにおいては,どんな災害でも災害でありさえすれば,その結果の如何に拘らず,ずっと続けて賠償を受けるのが当然であるかのような考えが支配的となる。多くの労働者は災害の後では常に補償を受ける権利があると信じている。ある労働者は最終的に自分でも災害の後遺症がまったくないことを認めざるをえなかった。これに対して私は年金を請求する権利がないことを説明したが,彼は「たしかにそうですが,私はこんなに重い事故を受けてまったく金にならないですますことはできません」と答えた。
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