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Ⅰ.まえがき
筆者は1970〜1972年にわたる2年間ハイデルベルク大学で学ぶ機会を有したが,滞独の最大目的は比較精神医学的見地より日本と西欧の精神病者像について,比較,検討,考察することであった。しかしその地に滞在し,精神病者に接しているうちに,ただ単に現時点における病像の差異を論ずるだけに終始するのは無意味であると気付いた。つまり現象像は両者の民族のうちで,その歴史的な社会の変動に伴って変化を来たしているからである。Jaspers1)も人間をその歴史的変遷という点や,歴史的条件下にある点から見る時に,はじめて人間を人間として理解することになり,社会学的歴史学的な視界は逆にまた実地における個個の例を理解するのに役立つと述べている。また,このような研究においては,まず両国文化の根本的相違にまで言及する必要が出ることも勿論である。精神病理学は人間というものが,文化的存在でもあることをいつも認めなければならないと言うJaspers1)は,精神病の現れ方が,それが生ずる社会と文化圏の如何によって異なるため,精神科医は患者から徹底的な社会的既往歴をいつも求めねばならぬと強調している。
滞欧生活において筆者が最も注意を惹かれたことは,キリスト教の浸透の深さである。この宗教に対する態度というものが,ヨーロッパと日本人の間における最大の相違といえるのではないであろうか。三浦2)は,「実に西洋文化の基調はキリスト教の信仰であって,18世紀の啓蒙時代以来キリスト教の勢力は,昔日の比に非ずと言われているが,自分の見る所では西洋文化の特色であるといわれている自然科学的考え方でも,また是を脱却せむと勉めたロマンティックの考え方でも何れも,キリスト教に対して仏教,儒教の相違点を明きらかにすることが出来れば,東西両文化の相違の大体の見当は付くと思う」と述べている。しかしヨーロッパでは今日なおキリスト教が大きな影響力を有しているのに比し,今日の日本での宗教は二義的意義しか有していない。たとえば1959年3)に内閣の統計整理研究所が行った国民性の調査で,全体としては無宗教の人が多いという結果が得られている。これに対し,1970年12月4)の調査によると,日本の信徒数は1億7900万弱でその内訳は神道系8332万余,仏教系8496万余,キリスト教系80万余,諸教987万余となっていて,同年度の日本人の総人口1億450万をはるかに凌駕している。この統計から藤井4)は,個人の信仰,血縁にもとづく氏族信仰,地縁を媒介とした地域社会の村氏神,郷社といった日本宗教に関する重層複合的性格を指摘しているのは当を得ている。中村3)も日本人の非宗教的性格を歴史的に眺め,仏教および儒教の受容の仕方において,日本人は外来思想または外来の宗教をただちに受容したのではなく,日本人の特性に合うものだけを摂取し,今日でも何らの矛盾も感ずることなく,熱心な仏教信者は,また,たいてい敬虔な敬神家であるという日本人特有の現象を挙げ,あらゆる他の信仰をラディカルに排斥してきたキリスト教に対比させ,異教という観念が明白でない日本における仏教支配は,西洋におけるキリスト教支配とはまったく性格を異にしていたと述べている。
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