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私共の大学の付属病院が新築されることになり,精神科病棟の設計について教室の中で色々と構想を練り,そのプランを提出したが,例によって予算と基準面積の関係で,最初のプランを半分以下に縮小せざるを得なくなった。経済大国といわれるこの国で新しく大学を整備しようという時,何とも納得出来ない話だが,何しろ全体の枠が動かし難いということになれば,いきおい他の科との釣り合いということで我慢せざるを得なくなった。それではせめて将来拡張の可能性を残して,精神科だけ独立病棟として建築することを辛じて認めて貰ったが,当初のプランが何時実現されるか心もとない話である。予算規模や立地条件にもよるが,概ね我国の大学精神科の病棟は二三の例外を除いて,ベッド数も少なく,病室以外の生活空間や設備が充分でなく,また,屋外の施設も貧弱な為に長期入院者の治療に不適当なものが多い。このことが大学精神科の性格をある程度規定してきたことは否定し難いであろう。すなわち,病棟の設備や構造の上から,それに見合った患者しか収容出来ず,また,ベッド数の関係からもいきおい,そのよしあしは別として,主治医の関心や興味に合った患者のみが選択的に入院させられる結果になる。また,個人的精神療法や薬物療法によっても病状の改善が見られない慢性分裂病者は,作業療法や生活療法に対する設備や人手の不足の理由で,他の病院に転院委託される場合が多い。したがって,大学精神科の患者の入院期間は比較的短く,主治医は特定の患者やある限られた時期の患者については,かなり深く治療的接近をし得ても,慢性患者の運命をつぶさに身をもって看る機会は少ない。このことが主治医の分裂病観にも影響することは否めないであろう。
大学精神医学という言葉が病院精神医学との対語の形で,批判や一種の侮蔑を含んだ呼称として用いられ始めたのは,精神病院で慢性分裂病者の社会復帰をめぐる活動が盛んに行なわれはじめた頃からである。すなわち,「大学は慢性分裂病者を多くかかえて悪戦苦闘している精神科医の現実課題から免れており,また,ある種の精神病質者や『厄介』な患者とのつき合いからも身をかわしている」「大学精神医学は安楽椅子精神医学であり,社会的実践から遊離した研究至上主義やディレッタンチズムに陥っている」等の批判をしばしば耳にするし,また,このような批判はその限りにおいて,ある程度正当であろう。いうまでもなく,大学の課題は学問であり,研究と教育が相即的に行なわれている所が大学である。学問は根源的な知的欲求に導びかれて,個々の研究領域にどこまでも分け入る傾向がある。このような研究の分化が単に個別性の中への埋没でなく,絶えず全体性への関係を見失わないことによって,その限界を自覚している限り,たとえその研究が時流をはなれたように見え,また,今日的課題に対して有用性をもたなくても咎められるべきではない。むしろ,大学こそこのような意味での無用者の居ることが許される場所であるはずである。研究者は本来的に単独者であり,自由であるべきである。自由だからこそ彼等は開かれており,互いに問いかけ合い,闘うのである。そのような論争の内におのずから理念がはぐくまれ共有される。一つの理念に貫かれて絶えず問題が立てられ,それをめぐって研究者の意識の緊張が続けられる時,新しい学問上の洞察が得られ,さらに新たな問題が立てられる。このような研究活動の中では,世俗的な権威や特権は無縁である。大学の中に真の意味での研究活動が生きており,権威や衒学により,学問的明識が曇らされない限り,閉鎖的となることはないであろうし,大学は学外での創造的な業績を正しく評価する機能を失わないであろう。
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