特集 心因をめぐる諸問題
第3回日本精神病理・精神療法学会シンポジウム
指定討論および演者回答
演者解答
下坂
,
小木
,
笠原
,
井上
,
黒丸
,
土居
,
井村
pp.421-424
発行日 1967年6月15日
Published Date 1967/6/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1405201209
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下坂 土居先生のご質問にお答えします。結局私は心因の本質への問いを忘れてしまつている,心因をどういうふうにとらえるかという本質がぼやけているといわれたわけですが,実際それはそうで,いわば逃げてそこを通つたわけです。私の考えを申しあげれば,原因としての心因を考える場合に心因の心のほうは狭く私が抄録に書いたことと少しく矛盾してぐあいが悪いのですが,抄録のほうは上位概念として広くとつてあります。——原因となる心的な体験は,対人的体験そのものか,あるいは出来事に触発されて出てくる対人的体験というふうにとりたいわけです。そこで抄録のなかで羅列的にとりあげたものの一つは情動因です。かつて戦争神経症や驚愕精神病の問題がさかんにとりあげられたときには,非常に純粋な情動反応といったかたちがとりあげられて,そこから二次的にヒステリー性加工というような問題も出てきたわけですが,あの当時の著者たちが心因反応といつているのは,ほとんど人格因子が関与しないで,刺激に対して直接的な,情動的な精神身体反応が起こるものを心因反応といつたわけです。それはしかし心というものはわれわれの常識からいいますと,心をもつている人間はそれぞれの生活史をふまえてつねになにかの対象を志向しているというふうに考えられますから,純粋の情動因というのは,心因には違いないでしようが,非常に特殊な,まれなものであるというふうに思います。結局驚愕反応というのはKretschmerなどは生物学的な反応になぞらえているわけですから,動物にも起こりうる。ですから純粋に,人格の関与した心の因とはいえないというふうに思うわけです。
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