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I はじめに
書きまちがいは,われわれが日常生活において始終経験することがらであるが,それがどんなときに,どのようなぐあいにおこるかを注目するのは興味深いことである。人によつては書きまちがいを多くする傾向のある者がいるし,時によつては,1つの文章の中でことさら何度も書きまちがいをする場合もある。また,書き誤つて訂正する個所をふたたび書きまちがうこともある。
同じ書きまちがいでも,正常成人,子供あるいは精神薄弱者の場合ではそれぞれその傾向が異なるし,進行麻痺患者や精神分裂病者には,もつと病的な独特な誤りかたがあるように思える。このような書きまちがいは,経験的な筆跡鑑定の1つの方法としても実用的に利用される場合がある1)。
さて,こうした書字現象に対して従来いろいろな研究がなされてきたが,方法論的に大きく2つに区別することができると思われる。その1つはKleist2),Isserlin3)初め多くの研究者がやつたように,失語症の失書(Agraphia)または錯書(Paragraphia)に関連して内言語過程といつた面から研究するゆきかたで,脳生理学とともにゲシタルト心理学にもとづく実験心理学的方法4)もこれに加えたい。とくにわが国のこの方面の研究では失語症の錯語(Paraphasia)が第1に取扱われたようであるが,その錯書にも日本語の特殊性に関して種々の考察がなされ,正常者の書き誤りと比較して論じられた5)6)7)。他の1つはFreudが「日常生活の精神病理8)」において書きそこない(Verschreiben)としてとりあげたように,この失錯行為に対して無意識過程からの意味づけを行なう方法である。一方は脳の機能を基礎にして失語症という病的現象を説明しようとする大脳生理学的ゆきかたで,正常者の書きまちがいだけを問題にすることは少ないのに反し,他方は精神分析学の立場からこういつた正常者の問題に心理学的接近をこころみようとするものである。
1つの思想が内言語過程を経て書字運動に移されるまでの複雑な大脳の経路については,いろいろな学説はあるがまだ十分解明されていないし,それが書き誤まられるための要因について論じることは,なお困難な問題であろうと思われる。
私はこの書きまちがいに学生時代から関心があり,以来10余年間に集めた正常者の例について書きまちがいがどのようになされているか報告したい。ここに集められた例は,手紙,日記,講義録,診察カルテ,試験答案その他「書かれたもの」の中から,明らかに書きまちがいと思われる約600例を選び整理したもので,あて字,思い違いによる誤字と思われる例などは含まれていない。またなんらかの精神障害のある者による例はのぞき,成人正常者のもののみにかぎられた。多くは書きまちがい部分だけをひろい集めたが,一部は前後のかなり長い文章とも書きとつて資料にしたものもある。なおこの中には私自身の書きまちがい例が多く含まれている。
こうして集められた雑多な資料をどのように整理すべきかに苦心したが,今回は書きまちがいの事実が1つの現象としてどのような傾向をもつているか,という立場からみることにした。従来失語症の例において井村教授ら5)6)9)が,日本語の特殊性として表音文字としての仮名と,表意文字としての漢字に分けて論じていることにならい,つぎのごとく整理した。
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