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第2部
Ⅰ.精神療法におけるS.Ferudの基本的態度
現代自我心理学の人間理解の基本方向は,Freudの精神療法家としての治療的実践に含まれた人間理解に発している。第1部でのべたように,すでに1910年ごろにはAdler, Jungが,1925,6年からは,Ferenczi,Reich,Horney,Rank,さらには,Annna Freud,Melanie Kleinによる児童分析やPaul Frdernによる精神病の精神療法などが,Freud以外の操作主体として,操作的自覚の過程に参与し,数々の貢献を残すとともに,cerebral psychiatristとして出発したFreud自身も,これらの操作主体たちの批判にこたえ,また彼らの貢献を摂取しながら,しだいにpsychotherapistとしての自分のよりどころを明らかにし,精神分析療法の特質を明確にしていつた。これらは「技法論」(1904〜1920)1)の中に,——実は,さらにさかのぼつて,すでに「ヒステリー研究」2)の中にも——さまざまの形でのべられているのであるが,とくに晩年(1937〜9)にいたつてFreudは,自分の精神療法に関する説明のしかたにかなりの発展を示し,「分析技法における構成の仕事」(1937)3)や「精神分析学概説」(1939:遺稿)4)では,もつとも明確な表現を与えている。
たとえば,「構成の仕事」では,analystがanalysandの精神についてうる了解は,従来「解釈」Deutungとよばれていたが,むしろ「構成」Konstruktionまたは「再構成」Rekonstruktionとよぶほうが適切であるとのべ,この「構成」の過程は「analystの構成(了解)の伝達Mitteilung→analysandの主体的反応(analystの伝達に対する肯定Jaまたは否定Nein=自我の主体的活動)→再構成・その伝達→analysandの主体的反応」というかぎりない試行錯誤的な交渉過程を経て徐々に実現されてゆくものであると,方法論的思索をのべ,同時に「分析療法は,二つのまつたく異つた部分から成り立つていて,それぞれ独立した舞台の上で展開され,おのおの別個の課題をになつている2人の人物によつて行なわれる」と語り,そこでFreudは一瞬「なぜこの基礎的事実にずつと以前から気づかなかつたのだろう」と自問し,「それは一般に知られた自明の事実なのだが,いままでは,ある特殊の意図によつて抽象され3その一部分だけ切り離して問題にされているにすぎなかつたのだ」と説明し,さらにこの「構成→伝達→反応→再構成」の仕事を,古代の遺跡を発掘・再現する考古学者のそれにたとえ,ただ,analystのほうは「破壊された物体を相手とするものではなく,現に生きているもの(主体性あるもの,構成の伝達に対して主体的な否定を行なう可能性をもつもの)について仕事をする」という好条件に恵まれており,analystにとつては,この「構成」は本来の目標,相手を変化させる準備にすぎない点が考古学者のそれと異るとのべている。analystの「構成」過程は,試行錯誤的な,患者との相互否定的な,動的な開かれた発展過程であつて,決してそれは,analystが主観的に,静的に対象化された無意識を解釈する閉ざされたもの(深層心理学)ではなく,治療者自身の主体的な変化を媒介にして初めて発展しうるものである。この点が第1部でのべたような,魔術的な催眠や権威的な暗示や説得と,ある時期からの自由連想法を基本とした精神分析療法を根本的に区別する特徴であり,このような合理的な治療的人間関係の形式——筆者はこれを対話的な協力性dialogic partnershipとよぶ——こそ,精神療法の分野に遺したFreudの最大の貢献であろう。Freudは,きわめて晩年にいたつて,たぶん精神療法家(操作主体)としての50年にわたる操作的自覚の道程を経て,初めてこれを——Freud流のひかえめなまわりくどいいいまわしで——概念的表現にまでもたらしえたのである。とくに興味ぶかい事実は,自分の治療的実践について,もつとも適切な概念的表現をのべたこの論文の中で,初めて歴史的真理historische Wahrheitという言葉を用いて精神療法上の真理をのべている事実である。さらにFreudは,「精神分析学概説」(1939)の中で,「分析医の自我と患者の弱化した自我は,現実の外界によりどころをおいて同盟(契約)を結び,当面の敵であるエス(本能)の要求と上位自我の要求に対してともに闘う。われわれは互いに連合するのである。患者の自我は完全な誠実さvollste Aufrichtigkeitを,つまり分析医の要求にしたがつて自らの自己観察Selbstwahrnehmungにあらわれる材料を提供し,それを,分析医に操作させる契約を結ぶ。一方われわれは,患者の自我に厳格な分別ある態度strenge Diskretionを守ることを保証し,無意識に支配された患者の材料の解釈にわれわれの経験を役だてる。われわれの知識は患者の無知を補い,精神生活の失われた領域に対する患者り自我の支配権を回復させる。このような分析医と患者の間に結ばれる自我の同盟(治療契約)Vertragを基盤として,分析状況analytische Situationは成立するのである」と明言しているが,筆者は,この言葉の中に,精神分析療法に関するFreudのもつとも究極的な記述を見出す。以下にわれわれは,それまでに書かれたFreudの技法論文の中から,精神療法家としてのFreud(註43)の基本的態度―ひいてはそれは,精神分析療法の精神療法としての人間理解の特質を意味すると思われるが―をかえりみ,それらを列記してみたい。このこころみは,Erik Eriksonのidentityの概念(第3部で後述)にしたがえば,精神分析療法における治療者の治療者(analyst)たる本質すなわちtherapist's identityまたはanalyst's identityの解明を意味するものである(註44)。このような解明のこころみを経ることによつて初めて,その後の精神分析療法の発達における「Freud的なもの」の修正や批判,ほかの精神療法との比較・検討,各国(たとえば日本)における精神分析療法の適用の妥当性とその限界―精神療法の背景となるいわゆる社会的・文化的諸制約との関係―の究明,ひいては精神療法を各国民の社会的・文化的特徴を研究するtranscultural studyの研究方法とするくわだても可能となると思われる。
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