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第2部(つづき)
Ⅳ.精神療法的人間理解における倫理性と宗教心理の問題
1.倫理主義としてのS. Freudの精神療法的人間理解
S. Freudは,「Dostojewskiと父親殺し」1)(1928)の冒頭で,この内容豊かな人格を,詩人としての彼,神経症患者(またはてんかんもち)としての彼,倫理家としての彼,罪人としての彼に区別し,「詩人としての彼は,シェクスピアに比較してもさして劣つてはいない」と賞讃したのち,「詩人というものが問題となるかぎり,精神分析的な方法は手をあげるほかはない」とのべ,ついで,倫理家としての彼を論じているが,その論旨には,詩人を論じるさいの「自分にはわからない」という消極的な態度は影をひそめ,倫理家としてのDostojewskiを高く評価する一般の見解を冷く否定してつぎのようにのべている。すなわちFreudは,「もつともふかい罪の領域を通つたことのある者のみがもつとも高い倫理の段階に到達するということを論拠として,Dostojewskiを倫理的に高く評価しようとするのは,重大な疑点を看過する態度である。すなわち倫理的な人間とは,誘惑というものに,それが心の中で感じられたとたんにただちに反応し,しかもこれに屈服することのない人間の謂なのである。」と断言し,「さまざまな罪をおかし,しかるのち後悔して,高い倫理的要求をかかげるにいたつた人間は,楽な道を歩んだのだという非難を免れることはできない。そのような人間は,倫理の本質的な部分をなすもの,すなわち断念というものを遂行することができなかつたのである。けだし,倫理的な生活を送るということは,人類の実際生活の利害(現実原則)の要求するところ(適応)なのであるから……」とのべ,このような意味で,Dostojewskiが倫理的たりえなかつた原因として,Freudは,彼の心内の犯罪性(衝動性)とこれに対する無意識的罪悪感をめぐる極端な心的葛藤(ambivalence)の激しさ,これを基礎づける神経症的ないしてんかん性の病理的機制をあげ,「もし神経症でなかつたとすれば,あれほどの高い知性をもち,あれほど強い人類愛に燃えていた彼であつてみれば,もつと違つた人生行路,たとえば使徒のような聖なる生涯を歩んだことであろう」と,惜しんでいる。換言すれば,Dostolewskiが倫理的人間たりえなかつたのは,神経症患者だつたからであり,神経症患者は,Freudの定義する意味での「倫理的なもの」を遂行しえない。なぜならば,神経症は,欲求の現実原則Realitätsprinzipによる断念(frustration)に耐ええない結果,すなわち「倫理性」を維持しえぬ結果おこるものであるから。Freudにとつて神経症は,「倫理的なもの」からの,安易な逃げ道であり,「正常な自我」の未発達または障害とは,このような「倫理性」を維持する倫理的自我の弱さを意味したのである。
われわれは,以上の実例のうちに,そしてまた第Ⅱ部Ⅲ6(6月号20頁)に引用した,SandorFerencziとFreudとの会見記におけるFreudの態度,すなわち,「治療者の母親的maternalまたは父母的paternalな愛による世話や支持は,——未熟な治療者がやると——,禁欲規則を破り,倫理的な医師としての分別をこえた,私的な愛情による自己陶酔となり,患者を性的な溺愛やあまやかしにおとしいれる危険がある」という見解のうちに,精神療法におけるFreudの基本的態度——対話的協力,科学的真理性,誠実,禁欲規則,医師としての分別,公共性——の背景となつた人間理解の特質——倫理主義——を見出すことができる。この倫理的な態度の否定によつて生まれた,その後の,いわゆる愛の態度―愛,人格性,共感,生命性,超越性,柔軟な能動性―に代表されるような,第Ⅱ部Ⅲ 6でのべた各カテゴリーは,もしFreudが知れば,Ferencziに向かつてのべた批判と同じ批判を向けたであろうような性格を有する。FreudとFerencziのこの会見の中にわれわれは,Freudの精神分析療法とそれ以後の精神分析療法という,世代の対立あるいは二つの流れを見出すのである(註61)。
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