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はじめに
Transcultural Psychiatry誌を主宰する文化精神医学者Kirmayerは,「文化精神医学の将来」と題する論文の中で「文化精神医学の歴史は,三連画(トリプティーク)として大略を描くことができる。左側の版画には精神障害の形態とその有病率に関する比較文化的研究が,右側の版画には移民と多民族国家において病いが持つ文化的多様性の研究が,中央の版画には,精神医学の理論と実践に対する文化批判が位置する」(下線は筆者による)と書いている24)。
わが国の文化精神医学(広くは精神医学)の歴史に欠けてきたのは右側と中央の版画であろう。病いが持つ文化的多様性の研究が進まなかった理由は,わが国は文化的多様性を持たず,文化的多様性を持った人々も少ないという通念に基づいている。その点をMorris-Suzukiは「外国人をエキゾティックなものであるとする傾向は,日本文化は独自なものであるとする論説の長い伝統―いわば日本人が自らをエキゾティックだと考えている現象―と結びついている」と指摘する48)。精神医学の理論と実践に対する文化批判が起こらなかった理由は(精神医療が精神科病院文化に支配されているという意味では起こったといえるが),やはり文化的多様性への認識への欠如に由来しているといえる。現在進行中の精神医学の普遍化,生物学化(biologization)への異議申し立ては医療人類学者たちによって行われた。Kleinmanは,中国においても「うつ病」は欧米と変わらぬ普遍的な症状を呈するとしたある研究に,欧米の診断の枠組みを欧米以外の事例に押し当てて,あたかも普遍的で文化に支配されない疾患の実体が存在するかのように描写していると批判し,それを自文化中心的な「カテゴリー錯誤(category fallacy)」と呼んだ26)。医学の普遍化,生物学化が進めば,医療者はevidence(証拠)のそろったもののみを疾患(disease)ととらえ,患者が患う主観物としての病い(illness)の手当てをしなくなるであろうと現代精神医学へのパラダイムへの痛烈な批判を行った27)。しかし,これらが日本の精神医学に実感を持って受け止められた兆しがないのは,日本の精神医学が文化を異文化,自文化というスキームでとらえる考え方は持っていても,精神医学を1つの医療文化の営みとしてとらえる視点に欠けているからであろう。本論文ではKirmayerのいう三連画(トリプティーク)をすべてカバーして論ずることはできないが,早晩日本においても現実となってくるであろう,多文化・多民族化時代の中で精神医療はどうあるべきかという視点から,「移民と多民族国家において病いが持つ文化的多様性の研究」部分に中心を置いて論考したい。
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