Coffee Break
補遺2.「在る」から見えるか「見る」から在るか─内視鏡診断
長廻 紘
pp.1628
発行日 2014年10月25日
Published Date 2014/10/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1403200035
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ものは「在る」から見えるか,「見る」から在るか.哲学が始まって以来の大問題とされる.そんなことがわたしに分かるはずがないが,考えるのは自由である.「内視鏡で見る」ことを例にとって考えてみる.
機器とそれを使って行う内視鏡検査それ自体は面白くもおかしくもない.面白くなり検査にのめり込むようになるには,ヘレン・ケラーにおける冷たい水のようなきっかけとなるエピソードが要る.内視鏡医が消化管の中に見るものは無数にある.それらを見ることは業務として坦々と進む.消化管粘膜はいわば群盲が触れる象である.ある日,早期癌・IIcを見たとき消化管外で見ることのできない神秘的な姿に打たれるということがありうる.打たれた人は内視鏡にのめり込んで行く.ヘレンの水・waterである.盲目のヘレンがwaterを理解したと同じように,早期癌・IIcは内視鏡初心者が内視鏡診断に開眼する冷たい水である.そうでない人は単なる内視鏡医として終わるか,その世界から去ってゆく.縁無き衆生である.早期胃癌を内視鏡で見たとき,ある種の人は内視鏡診断とはこういう事だとはじめて心の底から分かる.すくなくとも私はそうであった.
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