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見ることの本質は,「盲人にとっての見る」はなにかを参考にすると分かりやすい.ヘレン・ケラーのよく知られたエピソードに次のようなものがある.「ヘレンが顔を洗っていた時,水という名前を知りたいと思いました.私はwaterと綴りました(1).……その後,私達はポンプ小屋に行きました.冷たい水がどっと流れ出てコップを充たしたときに,私はヘレンの水のかかっていない方の手にwaterと綴りました.手の上にかかってくる冷たい感覚に密接に結びついてきたこの言葉は彼女を驚かしたようでした.彼女はコップを落とし,釘づけにされたように立っていました.彼女は数回waterと綴りました(2).家に帰る途中,彼女はすっかり興奮して,さわるものの名前を聞きみな覚えました.そして急に振り返って私の名前を聞いたのでした.私はteacherとつづりました.いまや,すべてのものが名前をもっている筈です.彼女の顔が毎日毎日と豊かな表情となるのに気づいているのです(ヘレンの先生サリヴァン夫人)」.
盲人が象の一部に触れて手掌にelephantと書かれてもピンとこない(群盲象を撫でる)ように,指で字を書かれても(点字でも同じこと)目が見えない者にはその意味するところはよくは分からない.それが冷たい水の感覚が伴ったのでヘレン・ケラーには水というものがよく理解できた,水が直観できた.すべてのものが名前をもっている.名前をつけることができたとき始めてそのものを意識的に見た,なにかと見なしたことになる.ものが本当に見えたときに,そしてその時にだけ見ているものが何であると「見なす」ことができる.水の実物と名前の一致がヘレンにとって急激なショックとして,あたかも知的な革命として出現した.
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