医道そぞろ歩き—医学史の視点から・39
2000年前のローマの医学派
二宮 陸雄
1
1二宮内科
pp.1308-1309
発行日 1998年7月10日
Published Date 1998/7/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402906907
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ケルススの『医学について』は,10世紀の手書きの本が1426年にボローニアで,1443年にミラノの教会の図書室で発見された.ケルススは前25年ころに生まれ,後50年ころまで生きたローマ人で,医学の歴史と現状について美しいラテン語で書き残していた.ケルススのおかげで,2000年前の医学理論と医療の実際をわれわれは知ることができる.アレクサンドリア学派の生体人体解剖のことも書かれていて,これを残酷で不必要なものとしりぞけ,かつて哲学に属していた医学をそれから切り離したのはコス島のヒポクラテスであることも明記されている.ヒポクラテスを「もっとも記憶されるべき価値のある人」と讃え,至るところにヒポクラテス全集を引用し,「金言集」からはその半数以上に当たる210もの金言を引用している.
当時のローマでは,主に3つの学派が,それぞれ独自の病因論をかざして勢力を分け合っていた.第一の学派はアレクサンドリアのエラシストラトスを継承する医者たちで,もとをたどればクニドス島で学んだクリュシッポスに発している.動脈には精気(プネウマ)だけがあり,静脈に血液がある.栄養過多などで静脈の血液が過多になったり,外傷などで精気が失われると,静脈の終末をこじあけて動脈内に血液が流れこむ.この血液が精気の動きを妨げて発熱させ,血液は動脈の袋小路に押しこまれて炎症が起きる.いわゆる血液過多病因論である.
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