医道そぞろ歩き—医学史の視点から・51
ファロッピオに届かなかったヴェサリウスの手紙
二宮 陸雄
1
1二宮内科
pp.1240-1241
発行日 1999年7月10日
Published Date 1999/7/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402906123
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ヴェサリウスが『人体構造論』(ファブリカ)を出版したのは1543年である.ヴェサリウスにとってこの大著は,青春の7年の歳月をかけて完成したものであった.この本のあまりにも即物的な解剖記載に霊魂の支配を重視する宗教界や医学界が反発することを予測して,出版のときヴェサリウスは一部の真実を敢えて曲げさえした.それでも非難は激しかった.ヴェサリウスは翌年パドヴァ大学を去り,スペイン宮廷医としてマドリッドに移った.まだ30歳を越えたばかりの彼にとって,まことに痛恨の極みであった.
ヴェサリウスのあとの外科解剖学教授の空席には,8年後の1551年にファロッピオがピサ大学から移って就任した.ファロッピオはヴェサリウスの9歳年下で,学生としてヴェサリウスの講義を聴いた.ファロッピオは結核のために10年後に39歳で死ぬが,死の前年の1561年に『解剖学的観察』をヴェネチアで出版した.約350ページのこの小型の本のなかでファロッピオは,のちに「ファロッピオの管」と呼ばれる輸卵管を記載してこれを「子宮のトランペット」と呼び,また,顔面神経管,三半規管,鼓索なども記載した.
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