医道そぞろ歩き—医学史の視点から・19
サレルノの医学校
二宮 陸雄
1
1二宮内科
pp.2228-2229
発行日 1996年11月10日
Published Date 1996/11/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402905383
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ヒポクラテス医学を継承し発展させたガレノスは,西暦200年にローマで死んだ.やがてイスラム帝国がスペインまで勢力を伸ばし,8世紀から13世紀にかけて医学の主導権はアラブ医学者の手中にあった.アラブ医学者の中には,その学理の核心をガレノス医学におく者も多く,有名なペルシャ人のイブン・シナ(アビケンナ)が11世紀前半に書いた『カノン』(医学典範)も,疾病論や「自然力」思想などガレノス医学の影響が濃い.12世紀後半にスペインからエジプトに逃れたユダヤ人の哲学者マイモニデスも,ガレノス学派の医者であった.ガレノスのギリシヤ語原典の多くが欧州で焼失したこともあって,10世紀中頃からペルシャやエジプトのアラビア語医書のラテン語への再翻訳が行われた.その中心地は中部イタリア西岸のサレルノや北イタリアのボローニヤであった.
ナポリの南東30マイルのサレルノの辺りでは,ガレノスの死後もギリシヤ語が話されていた.サレルノの町はティレーニア海に臨み,背後に高い山が連なる温暖な町で,帝政ローマ時代から保養地として知られ,529年にモンテ・カシノの山上に聖ベネディクトゥスが教団を開き,7世紀末には僧院ができ,9世紀には病院も建てられた.これと並行して成立したサレルノ医学校は,ナポリやボローニヤの医学校と同じく,僧院から独立した俗人学校で,やがて12世紀にはボローニヤ医学校,モンペリエ医学校と並ぶ医学教育の中心となった.
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