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きのう・きよう・あした
山形 敞一
1
1東北大内科
pp.1289
発行日 1966年9月10日
Published Date 1966/9/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402201467
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5月24日 急行「アカシア号」で函館駅を発車したのは午前7時半,芽吹くから松林のなかにちようど桜が咲いており,大沼をへだてて雪溪のわずかに残る駒ケ岳にはほそぼそとした登山道が見えている。曇り空の下の内浦湾は凪ぎわたり,タンポポの咲く渚から数隻の小舟が沖に漕ぎ出してゆくのが見える。煙霧の室蘭を過ぎ,札幌に着いたのは12時40分,ただちにグランドホテルで昼食をとる。再び午後2時50分発の急行「かむい号」で旭川に向う。席を並べた北大のT教授は来年3月に停年であるという。昭和23年,わたしが初めて北海道に渡つて北大を訪問した時,新設されたばかりの内科学第三講座主任教授となつて,応急の研究室などを案内してくださつたことなどを思い起こすと感無量である。
旭川駅に着いたのは午後5時10分,先着していた北大のM教授とHホテルで会い,テレビで大鵬と柏戸の好況ぶりを見ながら夕食をとる。午後7時半より隣りの三愛会館で開かれた北海道医師会と旭川市医師会共催の講演会で講演をする。旭川は医師会と保健所が一体となつて「黄色い血液」の追放を組織化し,血清肝炎の発生を防いでいるので著名である。わたしは,血清肝炎の予後が流行性肝炎に劣らず不良であること,急性肝炎は20%前後が慢性化し,4%ぐらい肝硬変になり,肝硬変の15%前後がヘパトームになることを述べ,肝炎発病後半年以内の徹底的治療の必要なことを力説した。
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