EDITORIAL
薬の使い方—ひとつの反省
高橋 忠雄
1
1慈恵医大内科
pp.25-27
発行日 1966年1月10日
Published Date 1966/1/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402201126
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乏しかつた戦中戦後
もう2O年以上昔になつてしまつたが,戦争中のことである。東大の薬局から各医局に何ども通知がまわされた。それは,はじめのうちは,ある薬物は今後品切れとなるという通告であつたが,そのうちだんだんと,ないものばかりになつて,ついには,現在あるものはこれだけという,まつたくさむざむとするほど乏しい在庫薬のリストがとどけられたりして,まもなく戦争が終つた。
戦争が終つたからといつて,今までないものづくしだつたのが,急に手に入るというわけにはいかず,当分の間は実に貧弱な処方箋しか書けなかつた。どういう根拠か今では覚えていないが,終戦後まがないころ,そのうちにインフルエンザの世界的な流行が来るだろうという説がもつぱら行なわれた。その対策の委員会というのができて,その集まりに厚生省に行つたのを記憶している(故柿沼先生の代理として)。その席上で,インフルエンザの罹患者が推定何百万人,その何%かが肺炎をおこすとして,それに要するスルファピリジン(当時はこれがほとんど唯一の抗肺炎性の化学療法剤)が総計何キログラム必要となるというような数字が,たしか宮川米次先生から提示された。そのころの日本の製鉄量から割り出して,ピリジンの年産はたしか5トンぐらい。それからつくられるスルファピリジンの量は,とてもその膨大な肺炎患者推定数には間に合わないという悲観論でその日の会議の空気はたいへん暗澹としたものであつた。
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