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はじめに—「難病対策要綱」の年に患者会を立ち上げて
私が小児結核と重症筋無力症と診断されたのは,まだ戦後間もない頃であった.1歳下の妹も同じ病気と診断された.1950年から52年にかけてのことである.その診断の正確さには今も驚嘆する.当時,この病気の患者は全国に10人といないといわれたという.皆保険制度はまだ先のことだ.若い父と母は子どもの医療費負担に苦しみ,札幌から離れて満足な医療機関もない炭鉱の町へと,稼ぎのために一家で移住した.注射器と,ようやく手に入れた一時しのぎのワゴスチグミンのアンプルを持って.その町で幼い妹は亡くなった.母はまだ20代であった.
妹の死を機に家族は札幌へと戻り,私は入院と退院を繰り返しながら,病院での生活が一番いい,と思う子どもになっていた.それから15年経って,私は大学へも行かず定職にもつかずにいた.症状が安定せず,薬の副作用もあって,あこがれの海外移住もできず(これは移住しないのが正解だったが),仕方なく父の仕事(看板・塗装業)を手伝いながら,絵描きまがいの生活をしていた.
そんな時ふと見た新聞で,重症筋無力症の患者らが患者会をつくったことを知った.だが私は患者会には入らなかった.「同病相憐れむ世界」「傷口を舐めあう世界」には近寄りたくもなかった.病名を知られたくはないし,何とか普通の人として見られたかったが,体はそうはいかないことが,常に私を苦しめていた.体力のいらない絵の世界で生きていこうとしていた.
しかし結婚もして,東京の美術展への出品ついでに立ち寄った患者会の会長宅で私が知ったのは,「専門医の薬の使い方は,専門医のいない北海道とはまるで違う」ということだった.それから私は何をすべきか自問自答して月日が過ぎ,1972年の難病対策要綱が発表された年に,亡くなった妹の声と,父母の応援と,病気を承知で結婚してくれた妻の後押しを頼りに,地元で患者会を立ち上げることとなった.
その頃,さまざまな患者団体が登場した.だが当時は「難病・奇病」といわれ,患者らを取り巻く状況は今では考えられないほど残酷だった.国も地方の行政も医師さえも見向いてくれず,「患者の尊厳」などという言葉もない時代であった.尊厳どころか,患者も家族も病気を隠し,患者会からの連絡さえ密やかに行っていた.会合の会場が借りられず,宿泊も断られる困難な時代が続いた.しかし私たちは,そういう状況の中で自然と,患者であっても「一人の人間としての尊厳は奪われてはならない」という意識と気概を身に付けることになったと思う.
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