特集 家族
老人と家族
今井 典子
1
Noriko IMAI
1
1聖マリアンナ医科大学病院医療相談室
pp.813-817
発行日 1986年12月15日
Published Date 1986/12/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401207382
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■語られぬ旅の思い出
妻のことで相談室を訪れた73歳の男性が,物静かに次のように語った.「私の仕事の関係で,戦前も戦後もよく転勤したんです.行き先ではなるべく妻と旅行に出かけたものですよ.私達には子供がいなかったせいもありますけど.ずいぶん回ったんですけど,日本も広いもので行きたいところがまだたくさんあって…….退職後に,その残ったところを順々に回ろうって,あれだけ言ってた妻が,そんなことを何にも言わなくなりましてね.今は私のことを私とわかっているのか,わかってないのか…….会うなり,もう帰っていいよなんて,すまして言うんですから.」
この男性の妻は,糖尿病で入院し,軽快した時期に骨折をしたため,入院が長びいているうちに,少しずつ痴呆の症状がでてきている,66歳の入院患者である.夫は週4回の面会を欠かさず続け,他の日は家事,所用をこなしながら,いつもこざっぱりした身なりで病院へやって来る.「せめて,前の旅行の思い出話ぐらい話し合えるといいんですけどね.まあ話せなくても,旅の思い出の財産は残っているのだろうと,勝手に思うようにしてます」と,夫はさらに言葉を続けた.これを聞いた時,理解力の低下と日常生活能力の低下を示す妻に対してみせたこの夫の態度に,強い印象を受けたことを今でも覚えている.
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