特集 公衆衛生院40年の歩み
公衆衛生院における研究の動向
母子保健
林 路彰
1
1国立公衆衛生院母性小児衛生学部
pp.246-249
発行日 1978年4月15日
Published Date 1978/4/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401205590
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I.はじめに
わが国の母子保健に関する研究は,かなり古い歴史をもっている.研究の基礎になる死産,出生,乳児死亡などについて,その数を把握できるようになったのは,明治13年(1880)からである.明治16年には年齢階級別死亡数から乳幼児死亡を論じた最初の論文が,「大日本私立衛生会雑誌」に発表されたと伝えられている1).さらに,明治32年からは中央集計にもとづく近代的な人口動態統計が始まっている.それによると,明治から大正にかけて,わが国の乳児死亡率は出生千対150以上という著しい高率が続き,しかも,乳児死亡が全死亡数のほぼ4分の1を占めているという異常な状態にあった.
大正5年内務省に保健衛生調査会が設けられ,各地で乳児死亡についての社会衛生調査が行われるようになった.また,乳児死亡原因の検討から必然的に早産や先天弱質児出生の防止,すなわち妊産婦対策に目が向けられ始めた.一方,高い乳児死亡率に象徴される貧困生活を防ぐための産児制限運動が,大正11年のサンガー女史来日を機に始まった.当時の多産多死から最近の少産少死へ移り変わる過程には,それぞれの時代の人口問題や社会経済問題が大きなかかわりをもっていたことを忘れてはならない.
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