特集 戦後30年の公衆衛生と私
"社会衛生学"を求めて
西尾 雅七
1,2
1京都府衛生・公害研究所
2京大
pp.546-547
発行日 1977年8月15日
Published Date 1977/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401205430
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■公衆衛生との出会いから--
私と公衆衛生の係わり合いは,昭和10年3月京都帝国大学医学部を卒業し,衛生学教室(戸田正三教授)にはいった時に始まります.しかし2年後には日支事変が勃発し,最初の充員召集にひっかかり,中国大陸の各地を転戦して,昭和14年8月に復員しました.ところが昭和16年7月に2度目の召集をうけ,昭和18年暮,大学要員として召集解除されるまで内地で勤務しました.したがって,この間実験室での研究を中断しながら続けていました.復員後は,敗戦前後の極端な物資不足の中での生活でしたから,到底実験室で研究などできる状況ではありませんでした.そして,何をすべきか考えあぐんでいた時に,幸い戸田先生が日本学術研究会議(日本学術振興会の後身)の会議員で,栄養能率委員会の委員長として戦時下の国民栄養の諸問題に取り組まれていた関係で,同委員会の幹事をおおせつかりました.そして,混乱した列車で敗戦後まで,月に1,2回京都と東京を往復することになりましたが,幹事としての仕事は委員会で決定された戦時下の日本人の性別・年齢別・職業別栄養所要量(熱量と蛋白質量)を用いて,日本人1人1日当たり栄養所要量を計算し,さらに戦争が継続されるとして,昭和21年度の日本国民の必要とする食糧(米,麦,いも,大豆および蔬菜等)を算出することでした.
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