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かねて「日本のチベット」と言われていた岩手県の,とりわけ県北北上山地を訪ねたいという希望は持っていました.その気持ちをさらに強くしたのは,平成14(2002)年の6月,岩手県保健師長研修会に講師として呼んでもらったときでした.その年は,奇しくも「保健婦」から「保健師」に呼称の変わった最初の年で,演題こそ「社会情勢と公衆衛生看護―ジャーナリストから見た保健師活動」ということでしたが,特に岩手県がたどってきた保健婦活動の壮絶な歩みを思うとき,「婦」から「師」へたった一字でも何かが途切れてしまわないか,不安がよぎったものです.私はこのときのカバンに,『宮沢賢治詩集』,40年も前の岩波新書の大牟羅良(著)『ものいわぬ農民』(1958年),そして『北上山地に生きる』(河北新報盛岡支社,1973年)の3冊を忍ばせて,盛岡に向かいました.
宮沢賢治(1896-1933)のいた「雨ニモ負ケズ」の時代,「ものいわぬ」は昭和30年代の,「北上山地」は40年代後半から,“出稼ぎ”による家族崩壊が問題化した時期の,この3冊の語る,同じ故郷の貧しい岩手の農村の風景や農民たちは重なってひとつながりにあるはずです.親や祖父母,またその上の世代の背負った環境や苦難は,現在の若い世代や子育てに影を落としたりはしていないかが心配でもありました.研修会の楽しみは全県の町村から集まる保健師から,高齢,母子など各地の保健活動の報告を聞けることです.しかし事例検討や事業報告もほとんど全国の保健師活動と変わらず,作成中の「保健計画」はどれも金太郎飴,そのことに特別がっかりしたわけではないのですが,ほんの20年くらい前まで岩手の地域保健・母子保健の課題だった「僻地・貧困・多病・多死・無知・非衛生」と闘ってきた,先輩保健師や助産師たちの歩みがあるだけに,そうした影も暗さもない報告にホッとすると同時に,本当に「課題」は卒業できたのか,ちゃんと保健師たちはそのことを踏まえているのか心配にもなりました.
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