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八年前に六九歳で大学を定年退職してから、私の仕事はもっぱら本の執筆と講演になりました。本は一年に二冊くらい書き下ろしを出す程度のペースであり、講演は平均して一年に三〇回くらい出かけてしゃべったものです。執筆は書斎に籠っての孤独な営みである一方、講演はたくさんの参加者相手で、いろんな人に出会えるという楽しみがあります。「静と動」というか、「集中と拡散」というか、二つの、性格が正反対の作業です。執筆はもっぱら一つのテーマに焦点を当てて掘り下げるのに対し、講演は科学技術論・原発問題・軍事研究の是非・司馬江漢・新しい博物学など幅広いテーマを取り上げて語るというわけです。そのため気分転換ができるので、いい組み合わせでした。
過去形で書いたのは、新型コロナウイルスの感染拡大で、私の大切な作業のうち講演を縮小せざるを得なくなったためです。最初の半年は、入っていた講演予約のキャンセルが相次ぎ、次の半年は、予約が入って講演の準備ができた頃に感染拡大で中止ということが続きました。そのうちにリモート講演となるケースが増えたのですが、リモートでは参加者の表情がよくわからないので手応えがありません。やはり、講演は聞いている人たちの、頷いたり、首を傾げたり、笑ったり、つまらなそうにそっぽを向いたり、そんな姿を見ながらしゃべってこそ、やり甲斐があるというものです。一方的にしゃべっているようですが、同じ場所で同じ空気を吸い込みながら対話を重ねているのですから。最近では、感染が収まったころを見計らって敢えて対面講演をする主催者が現われるようになりました。集会の主催者も、たとえ入場制限をしてでも、講師と参加者の直接の気持ちの交流を望んでいるのです。
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