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はじめに
「智に働けば角が立つ.情に棹させば流される.意地を通せば窮屈だ.兎角にこの世は住みにくい」夏目漱石の『草枕』冒頭よりの引用である.いろいろな解釈があるようだが,いわゆる「知・情・意」のバランスの難しさを指しているのではないだろうか.人は生まれてから死ぬまで,このバランスの中で右往左往して一生を終える.
心の健康とは,どういう状態を指すのだろうか.病気にならないこと(?)とすると,心の病気とは,どういう状態なのか.「DSM-5」,あるいは「ICD-10」等の診断基準に該当する者が病気と診断されるが,その境界線は明確なものではなく,人はその線をまたいで連続的に分布する.医学モデルに基づけば,その線の向こう側は治療対象となり,診療ガイドラインにしたがって治療を行う.「こちら側は病気ではないので,お引き取りいただく」というわけにもいかず,苦しんでいる人を診察室で目の前に見た場合,うつ病を満たさないなら,適応障害と診断をつけて,何とかその苦痛を軽減できないかと思い悩む.一方,幻覚妄想状態の患者さんを見ると,幻覚妄想をとるため抗精神病薬を飲んでもらう.幻覚妄想はとれても,患者さんの顔は浮かない.PANSS(Positive and Negative Syndrome Scale)1)は大幅改善だが,こちらはすっきりしない.精神症状の改善だけでは,治療をしている実感は得られない.
医療の現場では,リカバリーという用語が曖昧な概念のもとで用いられている.大きく,客観的な症状や社会機能レベルでの回復を意味する「クリニカルリカバリー(clinical recovery)」と,主観的な満足感を反映する「パーソナルリカバリー(personal recovery)」に分けられるが,両者は必ずしも相関しない.社会機能レベルが向上すれば満足感が得られるか,というと必ずしもそうではない2).治療者は得てして前者に目が行きがちだが,患者さんにとってより重要なのは後者であろう.近年は,疾患にかかわらず社会機能レベルは認知機能との関連性が示唆されているが3,4),主観的満足感は認知機能より感情的側面による影響が大きい.さらに,主観的満足感に寄与する要因については個人差が大きく,相対的な概念であり,基準の経時的変化や環境の影響,薬物による副作用等,さまざまな要因が絡むため,正確に評価するのが難しい.
個人的な要因としては,レジリエンス5),一般的因果律志向性6),敗北者的信念(defeatist belief)7)等が関連している.敗北者的信念とは,“成功確率を過少に見積もる”,わかりやすくいうと,“何をやってもどうせうまくいかない”とネガティブに思い込む傾向を指す.敗北者的信念の評価に用いられるDAS(The Dysfunctional Attitudes Scale)は,日本語版の信頼性,妥当性の検証が2007年(平成19年)に行われている8).Grantら9)は,これまで認知機能障害と陰性症状,社会機能低下との関連性が,研究によってばらつく要因として,敗北者的信念が認知機能障害と陰性症状や社会機能低下との間の介在因子として,その一因となっていることを実証した.たとえば,統合失調症患者さんの場合,認知機能障害のために,児童期より学校等で失敗体験を繰り返すことで,次にも同じように失敗をすることを予測し,思考の転換がうまくできないと,そういう思いが信念として身につくこととなる.何かをすれば失敗すると考えれば,何もする気は起きなくなり,社会機能が低下するばかりか,主観的満足感もそがれる可能性がある.社会機能と主観的満足感の関連性においても,敗北者的信念や体験的陰性症状は調整因子として影響を及ぼしている可能性がある.すなわち,敗北者的信念が強い人は,社会機能レベルが高くなっても主観的満足感の向上につながらない,といったことはありそうである.敗北者的信念,体験的陰性症状は,社会機能レベルばかりでなく,主観的満足感の向上につながる鍵概念として,重要な治療ターゲットと考えてよいのだろうか.しかし,そもそも認知機能障害が要因となって継時的に敗北者的信念が強化されてくるとしたら,もっと早期に介入することで,社会機能や主観的満足感の低下を止められるのではないだろうか.
一方,個人的要因の他,主観的満足感は,たとえば少し前の自分や,周囲の人たちとの比較等,相対的関係性によって変化する.そのため,患者さんを取り巻く生活環境やその変化に十分注意を払う必要があるが,一人の治療者ではとても手が回らない.多職種連携による,医療モデルを超えた包括的な支援体制は,患者さんの主観的満足感を視野に入れた場合には必須のものとなる.
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