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はじめに
意思があるとは,それが志向する対象をその内に含む1),あるいは意味において対象を所有する2)ことになります。そしてそのような意思が繰り出されるには,人それぞれの歴史性がありその深部には過去いくつもの体験が,いわば沈殿した意味の歴史として宿されている3)のです。だからこそ意思決定が(彼に関与した全てを含みつつ本人の所有するものとして在りながら)成されることにおいては,ただ単に個人の権利などという巧みな語句であたかもその意思を尊重しているように見せかけたり,単純に権利の名の下にその意思を軽々しく実行させたりするようなものではないのです。
そして,彼の意思を私が納得(理解)するという作業においては,観察者がその意思を対象として把握するなどというような,近代的認識論による主―客分離型の捉えかたでは表層的な妥協しかなされないし,むしろ理解すらなされていないのです。彼の意思を私が本当に納得するためには,私と彼との間に生まれる共同主観性4)の奥底にある自他未分5)の深部にまで入り込む必要があるでしょう。なぜなら,彼の意思決定が彼自身の存亡をかけておこなわれるのであれば,その志向的対象こそは彼が含んでいる全ての経験の全体であるからなのです。人が人に対しておこなう作業はそれが重いものであればあるほど,だからこそ,「対象の把握」ではなく「他者経験を自分の経験とする」5)ものでなければならないのです。
本論では,療養者本人が感じる世界の広がりと,本人のみならず家族をも含めた生活者全体の世界を示し,看護がその世界に立ち入ることの実際を挙げてみましょう。さらに療養者の受容について考えてゆきながら,具体的なコミュニケーションエイドを紹介し,そして現在の諸制度を利用した場合の生活援助はどのようなものなのかを提示してゆきます。
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