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「不安」についての学習の経過—現実のできごとと体験の吟味による接近
小島 通代
1
1神戸市立看護短期大学
pp.201-214
発行日 1983年7月15日
Published Date 1983/7/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1681200759
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はじめに
健康の障害は,心身の消耗,その延長としての死との何らかの関係を,意識するとしないとにかかわらず,人に予想させると考えられる。霜山1)は「‥‥あらゆる不安は結局はその背後に死が出没しているということもいいうる」と述べている。また,小此木2)は「どんな病気の患者でも不安になる」と述べている。患者は不安をもっているのが自然だといえる。したがって,健康が障害された人を看護する者には「不安がわかる」ことが,基本的に必要な条件であるといえるであろう。
「だいじょうぶであろうか」「気がかりだ」などというような気分の状態が不安の状態であると理解すれば,私どもは誰でも,不安を日常生活で経験している。しかし,不安を客観的,理論的に理解することは容易ではない。霜山1)は「不安には数量化されず,言語化されない『生きられた』深みがあり,質の多様さがある」と指摘している。
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