- 有料閲覧
- 文献概要
Aさんは,癌の終末期の60代の男性であった。ご家族には,Aさんが危険な状態であると伝えられていた。Aさんとご家族は,実習での受け持ちを承諾してくださっていたが,指導者さんや先生は,私がAさんを受け持つかどうか考える時間を与えてくれた。それまでの実習で私が受け持たせていただいた患者さんは,状態が安定した回復期の方が多かった。私は終末期にある患者さんを受け持つことへの不安や恐怖が大きく,「死」と向き合っていく覚悟をなかなか決めることができなかった。私は,そのときの指導者さんや先生の「私たちもサポートするから」という言葉と,つらい状況のなかで受け持ちを引き受けてくださったAさんとご家族への感謝の気持ちから,受け持たせていただこうと決心した。何よりも,Aさんやご家族は「死」と向き合わざるを得ないのに,私が怖いからとAさんから逃げたくないと思った。
Aさんの病室は個室で,入り口の扉は閉まっていた。病室に入ると暗く重い空気を感じ,どんな顔であいさつをすればよいのかわからなくなった。Aさんとご家族の残り少ない時間を,私が邪魔してしまうのではないかという不安もあった。しかし,Aさんの妻と長男は笑顔で迎えてくださり,少しだけ緊張や不安が和らいだ。Aさんは目を閉じていたが,私があいさつをするとわずかに目を開き,痰のからんだ声で「よろしくお願いします」と一生懸命に言ってくださった。私の声かけにAさんがすぐに反応してくださり,私は少し安心できた。しかし,Aさんの骨格や血管がはっきり見えるほど細い腕,動きづらい関節,持続している喘鳴,ときどき見せる苦しそうな表情などから,「終末期」であることを感じさせられた。苦しそうな表情をしていたAさんに「痛いところはないですか?大丈夫ですか?」と尋ねると,Aさんは小さな声で「痛くないです。大丈夫じゃないですけど」と答えた。私は,はっとした。その通りだ,大丈夫なはずがない。しかし,私は痰の吸引も痛み止めの投与もできない。今,私に何ができるのだろう。1日目の実習が終わり,私はそんなことを考えていた。
Copyright © 2012, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.