連載 スクリーンに見るユースカルチャー・21
「教育的」か「教育者的」か
小池 高史
1
1横浜国立大学大学院環境情報学府
pp.443
発行日 2008年5月25日
Published Date 2008/5/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663100923
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前回,教育や就職にまつわる他人の将来の希望を語る発言について述べた。それも含めた広い意味での「教育的発言」というものは,すべて「教育者的発言」と言い換えうるものではないか,というのが今回の趣旨である。
私は自分の(あるいは他人の)発言や行動が「何者としてなされているか」ということをよく考える。J・クルターという社会学者は最近の著書の中で,「そのアプローチを当人は「科学的」だとしているが,我々にとってそれは『科学者的』なものにすぎない」というような趣旨で論敵を批判している。思うに,人は知らず知らずのうちに自分の役割に沿った発言しかできなくなっているのではないだろうか。例えば,私はよく「社会学的に言うと」といった表現を,発言の前置きとして使うが,それは実は「社会学者的に言うと」ということにすぎないのではないか。
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