連載 私の一冊・16
「ほんもの」を求めていた頃
月澤 美代子
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1順天堂大学大学院医学研究科医史学・医の人間学研究室
pp.540-541
発行日 2006年6月1日
Published Date 2006/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663100311
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樟の葉のざわめく家
長く続く黔ずんだ廊下の鈍い輝き。古い書斎の黴びた匂い。澱んだ池に棲む亀のヒューロイ。放心したような眼差しをした主人公の少女。そして,その兄である,旧家の跡取りとして祖父に溺愛された癇性な少年の一挙手一投足,心の動き,ゆらめき……。空の低くたれ込めた貧しい漁師町に生まれた女中の「時や」の潤んだ大きな瞳。時の堆積の中から浮かび上がってくる,小さな頃の記憶に息づく人々の心の叫びと囁き。
「私の一冊」を紹介する機会を与えられ,久しぶりに豊かな時を過ごすことができた。物語世界に浸り込むという甘美な時間。物語の中で展開される世界の中にたゆたいながら,その世界によって喚び起こされてくる自分自身の遙かな記憶の中に生きる人々の遠い声と会話しながら過ごす,ぼんやりとした,しかし,この上なく贅沢な時を。
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