特別寄稿
ネパールの医療と生活—結核診療団の一員として
小林 ゆき
1
1日赤中央病院保健指導係
pp.65-68
発行日 1966年8月10日
Published Date 1966/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662203723
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ヒマラヤの王国ネパール
日本から一歩も出たことのない私には,ネパール行きはふってわいたような思いがけない事件であった。半年の準備期間も実現するのかしらと半信半疑の形でとりとめない日々をすごしてしまった。出発の日が迫ってくるにしたがって,持ち前の物見高い気持であっさり引きうけてしまったものの,仕事の重さがひしひしと感じられてきた。出発が危ぶまれた印パ戦の雲行きも晴間をみせ,10月28日羽田を出発,29日にはもう任地ネパールの地をふんだ。ネパールときいて頭をかすめたのはまずヒマラヤ山,山あいのなかに古代の生活を営なんでいる図を一寸想像した。ネパールへ行って一番感じたことは? 想像していたのとどうでしたか? の二問はよくきかれる問だがどうだったろうか。とっさには答えられない。文明のおくれている国はこうなんだなと歴史をさかのぼっての生活をおもいおこしたというべきだろうか。そうかといっておくれている面ばかりでない。
鎖国が開かれて15年とはいえ,世界は進んでいるのである。明治維新と同じといえるところもあるが,諸外国の文明の息吹はどんどん入りこみ,真の文化とはいえないが,首都カトマンズのメイン道路は舗装され,日本のトヨタ自動車は観光バスとして印度へ通じる道を快適に走っていた。しかしそれにのれるのはごく一部の人である。多くの人は裸足ですたすた,90%を占めるという農民は日の出ぬうちから歩きづめ歩いて作物を運び,商に出てくる。
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