口絵
光を求める子等—横浜訓盲院をたずねて
pp.1-4
発行日 1957年2月10日
Published Date 1957/2/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662201342
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横浜市の南方,東に東京湾,西に富士の姿を望む竹の丸の高台5000坪の敷地に,赤い屋根,緑の屋根のある可愛らしい,小さな住宅群がある。これが横浜訓盲院である。
訓盲院は今から60余年前,明治22年に米人宣教師,ドレーパー女史が,木枯吹き荒ぶ夜,泣くように流れる「あんま」の笛の音の哀感にいたく打たれ,なんとかして薄幸の人々を救いたいという悲願のもとに始められたものだという。それから大正になつて今村幾太**氏が,ドレーパー女史にくどかれて,院長に着任,以来関東大震災に合い,幾多の星霜を守り育てて現在に至つたものである。現在生徒数は90名,先生は27名。先生方はすべてキリスト教の信仰に立つておられる人ばかりで,学院内の療舎で,全く盲児達と生活を共にしておられる。殊に戦争中は随分と苦しい生活できりぬけて来たそうである。当時は自分の事で一杯の時代であつたから誰一人として寄附してくれる人もなく,40人の児達を抱えて,「食いもの」がなく,辺りの雑草はみんな摘んでしまい,青いもののなくなつた時もあつたという。
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