研究の想い出
ビタミンをたずねて
藤田 秋治
1,2,3
1京都府立医科大学
2北里研究所
3女子栄養大学
pp.384-389
発行日 1970年8月15日
Published Date 1970/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.2425902868
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生いたち
私の郷里は大分県杵築町(今は市)です。祖父は大工の棟梁をしていたそうですが,父は福岡県から養子としてはいつて来たもので和菓子をつくることが得意でよく"久留米の殿様の御用菓子をつくつていた"といつて自慢していたのを子ども心に覚えています。中学までは町にあるので入り順調に進みましたがいざ卒業となりまして困りました。私は男ばかりの8人兄弟の7番目で家庭の事情では上の学校に進むことが困難でした。兄たちはいずれも親の援助にたよらずに上級の学校に進んだのであります。中学の先生は何とかして高等学校に進むようにといつてくれますし私自身大学の先生になつて学問の研究にささげたいと思いました。それで当時特許弁理士として東京につとめていた長兄のところに卒業成績表とともに手紙をだして何とか進学の方法はないだろうかと相談しました。そのうち"東京の第一高等学校に入れれば何とかなるかも知れないから受けてみないか"という手紙がきました。杵築中学は創立後12年目で卒業生はあまり多くなく先輩は熊本や鹿児島の高校に入つたものはあつたが東京の高校に入つたものはいなかつた。当時は高校は全国に8校しかなかつた時代でした。東京をうけるのは非常な冒険であつたが一か八かうけて見ようと決心しました。"ああ玉杯に花うけて"や"デカンショ"などは学生の間にも歌われていて一高はあこがれの的でした。
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