私達の声
ナイチンゲール誓詞再考,他
小坂 智都子
1
1岡山県保健婦専門学院
pp.58-61
発行日 1952年5月10日
Published Date 1952/5/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662200287
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"われは此処に集いたる人々の前に厳に神に誓わん,我が生涯を清く過し我が任務を忠実に尽さん事を"……スクタリの愛のランプを忍びつつ我こそはナイチンゲール誓詞的看護婦たらんとして,未来の抱負を希望に胸ふくらませ乍ら。私も看護を職業とするものの信条として之を習い唱え之に努めて来た。人類愛に燃え乍ら。看護と云う事は云うまでもなく憐みの心から発したものである。人を憐むと云う事は,その人に対して優越を感ずる事であり,之は明なる精神的不平等である。今再びしみじみとナイチンゲール誓詞を反趨して私の感ずる事は,非科学的であり,宗教臭いと云う事である。此の誓詞は十八世紀の社会に於ては通用したかも知れないが,現在の如く科学が発達し従つて看護も専門職業として独立してきた現在に於ては此の内容の持つ意味も陳腐になりつつあるのではなかろうか。看護倫理の徹底しなかつた時代には之で良かつたかも知れないが,科学の進歩と共にナイチンゲール誓詞も書きかえられるべきだと思う。宗教的でなければならぬ看護は専門職業である。この意味に於て学校の教師、タイピスト,皆同じである。その根底に於ては。と云うのは仕事の内容は異つても,それぞれの分野に於て社会に奉仕すると云う事に対して何の変りがあろう。之等は皆同じ樣に社会に対する義務である。従つて看護に従事するものだけ特別に奉仕が強要されると云う筋合は無いと思う。
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