連載 病とともに紡ぐ援助論・10
「訪れられること」/「剥き出しの感情」
ひらす けい
pp.90-93
発行日 2003年1月1日
Published Date 2003/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662100051
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
外的刺激の少ない生活は,平穏ではあるが単調でもある。身体は休息を求めているのに,精神は躍動を求めている。「出て行く部屋部屋よ! 出発することの素晴らしさよ! 平静よりは,ナタナエル,むしろ悲壮なる生活を!」。思春期の頃に断片的に覚えたA・ジイドのフレーズがふと甦る。刺激がないと生きる実感が持てないほど,基盤が揺らいでいるのかと自省する。自由に動けないことを積極的に利用して瞑想に耽ろうかとも思うが,修道女のようになるには,この身はあまりにも現実世界に惹かれているし,手放したくないものがたくさんある。他者を忌避しつつ渇望する感情の処理に苦慮することを予想しながらも,友人や知人と会い,対話することによって知的刺激を得ることは,手放したくないものの1つであった。
身体機能の低下が進んできたので外出は見合わせ,知人・友人には自宅を訪れてもらうことにした。インフォーマルな関係であるだけに,こちらが来訪者をもてなすスタンスを崩したくない。それゆえ,体調を良好な状態に持っていけるよう来訪日の前に調整を重ねることになる。相手にも無理をして日程を調整してもらうことになる。来訪者は,いたずらに暇な時間を埋めるために訪れているわけではない。多忙さのなかで貴重な時間を割いてでも,時間を共有するための何がしかの動機を持って来ている。こちらも家族の生活リズムを考慮しながらでも招きたい動機がある。会う時間を双方に有効な体験とするためには,訪れるほうも訪れられるほうも,十分な準備と礼節を欠かない思いやりが必要だと痛感した。
Copyright © 2003, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.