特集 ‘援助’と‘看護’の間—独り善がりな看護ケアからの脱皮を
ケアが看護になる時
金井 一薫
pp.273-278
発行日 1984年3月1日
Published Date 1984/3/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661920719
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看護とは配慮の学
数日前,私はある会のシンポジストとして,看護におけるケア(care)とキュア(cure)について考える機会を与えられた.この時,私なりにこの問題をとらえ直そうと思い,事前にF.ナイチンゲールの原文“看護覚え書”の中から,careとcureの2単語をすべて拾い出す作業に取り組んだ.ナイチンゲールは,careとcureについてどう語っているのかを是非ともつかんでみたかったからだが,その結果,いくつかのことがスッキリと見えてきた.その時の内容を改めてここで論ずるつもりはないが,私の内でこれだけは他の方がたにも伝えたいと感じた事柄が,ひとつだけ残った.それを表現すればごく当たり前の内容になってしまうことを覚悟の上で,述べてみたい.
私たちが看護ケアと言う時,その言葉をどんなイメージをもって使っているのだろうか.多くの方は(私もそうであったように)看護ケア・イコール・看護援助行為というように,置き換えて考えていないだろうか.他の言葉に置き換える必要もないほどに,ケアという語はすでに‘日本語’になり切っているとも思える.しかし私は今回,看護におけるケアをその根元から見つめていったとき,看護ケア・イコール・看護援助行為と置き換えたのでは,本来の看護のイメージに近づきにくいと感じたのだった.
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