特集 ナイチンゲールを見なおそう
極限状況で患者とのナマな心のふれあい
足達 さだ子
1
1日赤中央病院内科病棟
pp.18-20
発行日 1964年1月1日
Published Date 1964/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661912109
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「卒業—繰り上げ卒業ですって」興奮した友人の声に私たち3年生は思わず顔を見合わせた。思えばそれは20年も前,日本の運命を決したあの大東亜戦争の始まった年昭和16年の10月のある日,戦雲に何かただならぬ気配を感じている秋のこと。
女の身で戦地に行ける「傷ついた人々を看護することができる」そうしたひとつのあこがれにも似た気持を心の隅に秘めながら,現在の日赤女子短大の前身である救護看護婦養成所に両親の反対を押し切って入学したのは2年半前昭和14年の4月「女学校を卒業したなら家事の勉強でもさせて…」と口ぐせのようにいっていた父母のなげきも私の耳にははいらなかった。女の士官学校とまでいわれたきびしい毎日の学生生活も3年生の後期ともなれば卒業後の夢で一杯だったのに,急に半年も繰り上げて卒業が発表されると,何となく不安でどうしてよいのかととまどってしまったことを思い出す。下級生への申しつぎ(当時は先輩は皆召集されて従軍し2〜3病棟に婦長と卒業生が一人ずつぐらいしか勤務しておらず,患者の看護はすべて学生の手にまかされていたので責任はほとんど3年生が持っていた)身の回りの整理とあわただしく学生生活に終止符が打たれたのである。「病院船で待ってるわ」「戦地でまた会いましょうネ」と親しかった友人との別離を惜しむ暇もなく100余名のクラスメートはそれぞれ所属の支部に帰り先輩のいる救護班—船に野戦に病院に召集されて行った。
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