発行日 1950年3月15日
Published Date 1950/3/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906625
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對日講和條約という流行性熱病に取りつがれ,日本國民の多數は今うつつを拔かしているように思われる。昨年11月中ごろ,吉田首相が參議院の答辯で「氣に入らぬ條約だつたら席を蹴つて立つ」と語つたところ(その言葉は直ちに取消されたにもかかわらず),拍手大喝采したばかりか,「講和會議では吉田さん大いに頑張つてくださいよ」というような氣持になつた國民が大勢いたらしい。私はその直後,信州の山村を訪れたが,りつばな青年指導者までが,吉田さんの一言に感激して民自黨入りをしたと聞かされた時には,開いた口がふさがらなかつた。
50餘年の昔,日清戰爭のすんだ時には,伊藤博文と李鴻章が下關で講和會議を開いたし,その10年後には,小村壽太郎がロシアのウイッテ,ローゼンを向うにまわして,アメリカのポーツマスで日露戰爭の講和條約を締結した。當時,李鴻章は「今度の戰爭で清國は長年の迷夢をさましてもらつて幸いだつた」とうそぶき,ウイッテは「この會議の席には戰勝國もなく,戰敗國もいない」と公言している。日本の歴史教科書には,日清・日露兩戰爭とも日本の大勝利と書いてあるが,實は4分6分ぐらいの引分けであつたから,李鴻章もウイッテも,堂々意見をのべて談判を行つたのである。
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