発行日 1949年2月15日
Published Date 1949/2/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906425
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私等醫師特に外科醫が患者を治療する場合,いつも患者の治癒を心に念じ全力を盡してその所置を行ふのであるがときに如何にしてもその生命を救ひ得ない場合がある。とくに外科手術を行つたやうな場合その患者が癌の手遲れのやうなものであればこれは只今の醫學の程度には如何とも致しかたがないのであるがそれが單純な蟲垂炎であつたり胃潰瘍の患者の手術であってしかもその手術の時期もあまり手遲れといふほどでないのに現代の進歩した化學療法藥を充分に使用しても次々と思はぬ合併症を併發して死亡するやうなことがある。
そんな場合私はなにかその人のもつ壽命といふか,運命といふものに童話にでてくるローソクの火の例へのやうな定めがあるやうな氣がつくづくとするのである。そしてそのやうな患者に出遭つた時とかまたその反對に普通の我々の經驗常識からいへば絶對に助からないと決めてかかるやうな手遲れな重篤な患者が其のあやふい生命を助かつた様な場合にいつも私の友人の吉田のことを思ひ出すのである。そして私は患者が死んだ場合にその死をいたみ自分の無力を歎ずるとともに何か神祕な力に少しく心を慰めるのである。ここに吉田君の話を簡單に記載して私は人間といふものは死ぬ時がこなければ死なないが死ぬ時がくれば案外あつけなく死んでしまふものだといへる點を納得して戴かうと思ふ。吉田君は私の中學校の同級生だつた。
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