連載 道拓かれて—戦後看護史に見る人・技術・制度・5
看護の夜明けか苦難の始まりか一保助看法制定②
川島 みどり
1
1健和会臨床看護学研究所
pp.482-485
発行日 1997年5月1日
Published Date 1997/5/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661905346
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医師集団の看護職能ゆさぶりの歴史
さきに述べた看護制度審議会には,各界のリーダーが集められたが,医師の代表として,橋本寛敏(聖路加),久慈直太郎(日赤)岡部剛二(日赤)の氏名があがっている.いずれも故人だが,橋本は,当時「赤本」の名称で親しまれていた看護学教科書「看護学講座」(のちに「高等看護学講座」)の編纂をしていたし,聖路加国際病院長と聖路加女専の校長も兼任していた.久慈は,日赤産院の院長であった.岡部は日赤中央病院の副院長であった.岡部は,こずえが看護婦として働くようになって10年後,産休明けで勤務した外来で後進の指導をしながら診療をしていた.すでに現役を退き顧問としてではあったが.診療の合間によく当時を偲び,「進駐軍がこうしろといえば何が何でもイエスといって従う必要があった」と話していた.学究肌のとても真面目な医師であり,新着のドイツ語の原著が図書室に入るとすぐに,借り出して読んでいた.戦前,戦中を通して日赤の看護婦養成の中心的存在でもあったので,審議会のメンバーに任命されたのだろう.真面目一方であり,決して看護婦に無理を言ったりはせず,静かな印象であったが,看護婦の地位の向上への熱意や関心がそれほどあったとは思えない.自分から進んで発言するようなタイプではなかった.
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