日記の一頁
苦難の途を乘越えて
星野 こしの
pp.45-47
発行日 1952年4月1日
Published Date 1952/4/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611200087
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私は40年間この助産婦の仕事に從事して來ました。この職は本當に責任の重い實に貴い職責と日日感激の日を送つています。
私の父は石川縣の出身で,母は富山縣であります。私は父が富山縣戸出町小學校長時代に生れましたところから越中の廣野に因んで越野(こしの)と命名したと聞かされていました。その後父は栃木縣三和村女學校へ轉任しました。丁度その地に横濱のフェリス女學校の校長先生の別莊がありました關係でその先生に英語の手ほどきを受けましたところから大變親しくして頂き,私が9歳の時,クリスマスにお招待を受け大變大きなゴム球を頂いて歸つた嬉しい思い出があります。その當時はゴムまりは非常に珍しい物でした。或時その先生が私を預つてアメリカの學校までやつて教育して上げると申されました。父は大變進歩的な人だけに非常に喜びましたが,母は一人子だし虚弱であつた私を手ばなしかねて極力反對されてとうとうそのまゝになつて了いましたが,今から考えると誠に残念な事でした。當時父はこれからは女でも大いに勉強して何か職業を持つべきだと常々言つて居りました處から,將來女醫を心ざして居りました。この父が臺灣公學校長となつて渡臺致しましたが,氣候風土の激變かから早く亡なりましたので女醫の希望はなくなり,それに一番關係の深い産婆學を修めました。現在社會に接する機會が激しくなつてから自分の一般的教養のたりなさに感ずることが時々あります。
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