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はじめに
臨床で多くの慢性の病を有する人々と接していると,思いがけない一言に出会うことがある.しかし,その「思いがけなさ」は医療者の立場にいるからこそ感じるものであって,自分自身が病気を持ったと想像してみれば,それほど奇異なものではないのかもしれない,とも思う.医療者である私たちは,「病気になれば早く病気を治したいと思うのは当然」であると考え,病気の治療・治癒を優先する.医学や看護の発展は,いかに急性期の状態を脱するかという問いから発展してきたことに異議を唱える人はいないだろう.ただ,その立場にいるとどうしても見えにくいものもあると思われるのだ.
高度で複雑化された現代の医療現場では,患者や家族が意思決定を迫られるさまざまな場面に遭遇する.たとえば,全身浮腫のがん末期患者が,更なる化学療法を行なうかどうか,手術はできないと医師が判断をしたときにセカンドオピニオンを聞きに行くかどうか.その選択が患者自身の生命予後に影響することを理解したうえでの患者本人や家族の選択は,苦悩に満ちたものになる.
しかし,私たちが「思いがけなさ」を感じるのは,こうした生命予後と直結するような厳しい状況下よりもむしろ,慢性の病を持つ方の意思決定に対してなのである.慢性の病を持つ人々の意思決定について「思いがけなさ」を感じるのは,その意思決定の中に,一見すると「取るに足らないこと」に見える要素がしばしば登場するからだ.
「自分の身体,命の問題に比べればそれらが取るに足らないことである(と周囲から見られている)」ということは,患者自身も重々承知している.しかしながら,その病気,あるいは病気による症状が慢性的なものであり,一生続くかもしれないものであるとき,それらが本当に「取るに足らないこと」といえるのかどうかはわからない.少なくとも,慢性の病を抱える人々に関わる看護師は,むしろそうした「取るに足らないこと」を大切にしていかない限り,治療のステップが進んでいかないことを日々体験している.
高齢化が進行し,慢性疾患が増大している今,病気を有しながら生活する人々の意思決定に医療者がどうかかわれるかが問われている.ここでは筆者の経験をもとに,いかに「病を持ちつつ生きる」人の意思決定を援助していくかということを考えてみたい.
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