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〈戦争〉の前で
たとえ戦争の最中にあっても,人はささやかな日常の泣き笑いを生きることができる。砲弾降り注ぐボスニアの人々も,雨が降れば傘をさす。人間にはそのようにして生活する根源的な〈権利〉があり,それが健全な姿でもある。国家存亡の危機であれ,人類の帰趨を決する大事件であれ,私たちはそうした大文字の政治だけを考えて生きることはできないし,そうすべきでもない。どれほどの巨大な悲劇をも,どこかで笑い飛ばすこと,たとえ実際にはできなくても(直接の関係者ならば,できなくて当然だ),少なくともそのような可能性を認めつつ生活を続けなければならない。そうでなければ,私たちは,個々人の生命という実在を,国家だの民族だのという妄想のために消費するという愚行を,いつまでも反復することしかできないだろうから。
そうした当然の戒めを反芻しなければならないのは,9月11日の出来事とそれに続く状況が,現在の筆者の頭を占領しつづけているからである。あの(日本人には馴染みの深い)「自殺攻撃」という究極のテロリズムによって破壊された数千の人間の生命,そしてアメリ力合衆国と,日本を含むその「同盟国」の政府が「報復」という名の無差別攻撃に突き進んだ場合に破壊されるであろう幾多の無実の民間人の生命,それらについて考えるとき,いったい他の「ニュース」にどのような意味があるのか。正直に言うならば,他のことなど,どうでもいいように感じられてしまう。旅客機がNYの貿易センタービルに激突する映像を,偶然点けていたTVの画面でほぼリアルタイムに見た直後,NYにいる知人に筆者が送った電子メールに対して直ちに返ってきた返事には,「もはや昨日までの世界は失われた」という言葉が書きとめられてきた。それは筆者自身の感覚でもある。
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