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もう,ずいぶん前のことになるけれども,作家のもろさわようこさんと産婦人科で受診するのは恥ずかしいか,恥ずかしくないかというようなことを話し合ったことがある。恥ずかしいという感受性はきわめて身体的な感覚を伴ったものだ。恥ずかしいと顔が赫くなるとか,恥ずかしいと汗をかくとか,そういった身体の感覚抜きには恥ずかしいという感情はありえない。
もろさわようこさんは,産婦人科で受診するのは恥ずかしいと率直におっしゃっていた。私ほどの年齢になると,顔を赫くするとか汗をかくといった恥ずかしさの身体的な現象を見せてしまうこともまた恥ずかしいというような二重の感覚を持っている。恥ずかしいと感じることじたいが恥ずかしいというやつだ。もろさわようこさんと私は,祖母と孫くらいの年齢差があった。自分の親や祖母の世代の女性が何事につけても恥ずかしがるような様子を見せるのに,やや歯がゆさを覚えていたのは確かだ。そう恥ずかしい,恥ずかしいと言っていては,健康も得られなければ未来も開けないような気がした。身体が反応としてあらわす恥ずかしさを,頭で殺してしまうような感じで,上の世代が持っていた身体感覚を押し殺したのは,私ぐらいの年齢を境にしているのではないかと思う。
ただ,こうして時代が変わってきてみると,何事かを恥ずかしいと感じる感覚を,あまりにも押し殺しすぎたのではないかと,少し反省したくなるようなこともある。それに気付いたのは,言葉の問題からだった。うれしいとか哀しいという言葉がある。これらの感情をあらわす言葉は,不思議なもので「哀しい」と言われても,ちっとも哀しくなさそうに見える時がある。「うれしい」と口先で言っていても,ほんとうは喜んでいないんだなと解る時がある。身体全体が喜びや哀しみを表現していないと,その言葉はほんとうにむなしく響く。ところが,心にもないことを口先だけで言っているのではなく,「哀しい」とか「うれしい」という感覚それじたいが薄いのではないかと疑りたくなるような場面に出会うことが,しばしば,おこるようになった。
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