連載 ドキュメンタリー・日本の助産婦・6
「死ぬまで闘いあるのみ」の戦闘的助産婦—愛知県刈谷豊田病院・益永スミコさん
落合 英秋
pp.46-50
発行日 1972年12月1日
Published Date 1972/12/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611204452
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理想どおりの職場はない
名古屋から快速電車で20分あまりの刈谷市的刈谷豊田病院がある。この辺はまだ夜になると星がキラキラとよく輝き,田舎町といった感じの工業都市だ。この刈谷豊田病院的,豊田病院労働組合があり,その執行委員長である益永スミコ助産婦を訪ねた。
刈谷豊田病院は,その名のとおりトヨタ系の病院で,トヨタ系の7社(トヨタ織機,愛知製鋼,アイシン精機,トヨタ車体,日本電装,トヨタ紡織,トヨタ工機)の各社長のほか刈谷市長などが理事に加わり,ここでは市民病院的な性格も有している。この病院に益永さんが助産婦として勤めはじめたのは,昭和38年からで,それから10年近く彼女は,この刈谷豊田病院で〈ヒラの助産婦〉としてみずからの矛盾を解決すべく闘っている。
「いろいろ迷いましたが,ここより改革の余地はないと思っています」と,益永さんは覚悟をきめている。
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