母もわたしも助産婦さん
親子三代の助産婦がそろって
植久 サカエ
pp.24-25
発行日 1967年4月1日
Published Date 1967/4/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611203377
- 有料閲覧
- 文献概要
日頃,テレビ嫌いの祖母も"おはなはん"だけは例外で,朝何をおいてもテレビの前に座って泣いたり笑ったりし,また昼の再放送で同じドラマを飽きもせずに見ている.ドラマのおはなはんと祖母とは職業・年代が同じというだけでなく,主人に死に別れ女手一つで子供2人を育てた境遇と,明るくどんな苦労にもまけない性格が良く似ていた.自称"足利のおはなはん"である.この地方版おはなはんは御年74歳,そろそろもうろくしてもおかしくない年になったが,本人はまだまだ我家の総理大臣のつもりで,診察,分娩,沐浴,台所仕事と休む暇なく働いている.
現代は女性の社会的進出もめざましく,専門職としての仕事も多いので,若い人にとって,今や助産婦は魅力のある職業ではなくなってきたが,昔女性の職業は先生,看護婦,産婆,かみゆいくらいで,産婆はそのうちでもエリートな職業であった.祖母は鉄工場の奥さんとして不自由なく暮していたが,夫が脳溢血で倒れ,じき直りはしたが,「5年後必ず再発し,再発したら助からない。」と医師から死期の宣告を受けた。未亡人になってから生活に困るようでは大変と,夫の生存中に将来の経済生活を安定させるべく周囲の反対を押切って産婆学校へ入学.学校には夜間部があったので,昼は主婦,夜は学生で,自分の子供と同じ年頃の娘さんと一緒になって勉強.開業したのは昭和2年,34歳の時だった.「宮下鉄工場の奥さんが産婆を開業」と当時の新聞にのり,めずらしがられたそうである.
Copyright © 1967, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.