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明治の新政府は幕府の医学所(もとの西洋医学所)を明治2年(1869年)に医学校兼病院と改称して近代医学と取り組む第1歩を踏み出した.この明治2年にここで刑死の腑別でなく病死の解剖が行われている.この医学校は度々改称し,明治十年には東京大学医学部となった.この頃より病死の解剖も増加し,明治16年からは東大病理学教室の剖検記録が残っている.この年には37体の剖検がなされている.海外からの留学生が続々と帰国し.付属病院も整備されてきた今世紀初頭からは現在と同様の病理診断が下されていたことが剖検記録に見られる.剖検記録および診断はその精度が徐々に高くなり,昭和に入ってからは肉眼的に観察し,それを顕微鏡で調べるということは一つの頂点に達したと思われる.明治時代には剖検し,この組織標本を顕鏡することが即研究であり,顕微鏡は最新の機器であったに違いない.ところが現在もこの方法で剖検が行われているところを見ると既に半世紀も歩みを止めているように思える.現代では剖検業務は研究から遠ざかった臨床家へのサービスということが何となく臨床医および病理医の両者に定着してしまっている.原発不明癌の原発巣を探すとか,不幸の転帰の因となった大出血の出血源を探すとか,汎発性血管内凝固症候群やカリニイ肺炎の有無など肉眼的あるいは光顕水準で観察できることだけしか病理医に要求しないといったことが現実になってきている.剖検が保険点数に算入されていないので,結局は赤字運営にならざるを得ない.したがって新しい機器を買うこともできないので,高度の形態学的な検索を行うことが,定員・予算の制約でできないといったことが一つの大きな原因である.収益にならない病理解剖を高い水準で行ってこそ,治療の適,不適などを反省することができ,ひいてはそれが新しい診療の糧となる.生化学や血液検査室が新しい機器の中で活発な活動をしているのをみると,病理の検査室は自動染色機や自動包埋器があるぐらいで,旧態依然たる所が多い.病理の検査技師の人人も学校で新しいことを学んできても腕のふるいようがない。正しい医療は赤字運営になるという認識はたとえあっても,病院の運営には独立採算制が要求されているのが現実である.手術・生検症例の検索だけでなく,剖検も保険点数に算入せられるようにならないと,現状では病理検査室の近代化は困難のようである.
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