グラフ
遠大な構想から新たな岐路に—琉球大学保健学部附属病院
pp.9-14
発行日 1977年3月1日
Published Date 1977/3/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541206164
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「琉球大学に医学部を設置する」という昭和40年の佐藤総理大臣の発言に端を発した保健学部と病院の建設計画は,その後「大学病院の地域化,地域病院の大学病院化」という理念を根底に基本構想が作成された.これは新那覇病院として建設が進められたが,45年琉球大学付属病院となり,さらに47年の本土復帰に伴い,琉球大学保健学部附属病院となった.総理府から文部省管轄へというこの過程で,行政側の相違が如実に現れ,沖繩の特殊性を考案した基本構想も,単なる「本土なみ」に平均化され,200床の増床計画もコンピュータを活用した「近代化」への道も閉ざされてしまった.
その結果,21世紀を志向した病院自体に将来への希望を失わせ,沖縄の医療のみならず日本の病院医療のリーダとして位置づけようとした機能画でも相当の欠陥が生じ,単に国立大学病院なみの,さらに医学部病院と保健学部病院との格差は,国の予算面にも病院の機能面にも顕著に現れ,保健学部の病院としての機能しか果たしえなくなったのである.
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